狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

研究活動を観察する目で見た数学と物理

「音楽の科学的研究」という言葉に具体的な内容を盛るには、まず、「科学的研究」を観察してその特徴を明かすことが必要になる。「研究活動」を研究する分野にどのようなものがあるかと言うと、情報科学の関係者にとっては、情報科学の源流を手繰った先にある数学基礎論が目につく。

数学基礎論が注目される発端は、数学の基礎の所にある集合論に、論理的一貫性に関する疑いが出たことにある。集合論を公理的に書こうとして、すべての集合を要素に持つ集まりをxと書き、この(明確に定義されたものの集まり)xを集合と認定すると、x∈xとその否定¬x∈xとが同値であることが証明される*1。後に、すべての集合を要素に持つ集まりは集合にはならない*2ことが判って、集合論が矛盾することはないという結論が得られた。この結論に至るまでに、数学基礎論が重要な役割を果たす。

 

数学基礎論の部門の一つにモデルの理論がある。ここでは数学の研究活動を次の図のように捉えている。

数学の研究活動は下記の図式に拠り行われる。言語を使って対象を書く点がポイント。

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図の出典

月刊マセマティックス SYMPOSIUM2 数学基礎論 海洋出版株式会社

本橋信義著、モデルの理論、122頁図3に基づき作図。

 

モデルの理論はこの図を観察対象とする活動として導入される。図式的には次のとおり。

 

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出典

月刊マセマティックス SYMPOSIUM2 数学基礎論 海洋出版株式会社

本橋信義著、モデルの理論、123頁図6に基づき作図。

 

数学上の未解決問題の扱いは一つの問題であるが、モデルの理論では、言語L*3上で完全かつ健全となるように、論理LOに言語Lの文を補っている。その結果、論理LOの健全性・完全性が保証されるが、具体的な判り易さが失われる。(ゲーデル不完全性定理とは前提が異なる。)

 

音楽は演奏という具体的な行為により生成された、音という物理現象が運ぶ何者かであると言える。この実世界における具体的な存在を捉える仕組みが、モデルの理論の枠組みには欠けている。そこで、数学基礎論の発想を尊重し、かつ実世界との対応関係を設定できるように、物理学の研究活動を観察対象とする基礎論を考えてみる。実体と観測という要素を追加して、次の図式を作る。

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「実体」(実世界の要素)を追加する理由は、例えば次のとおり*4

速度を定義するために使う「瞬間」dtは、どんな小さな正数より小さいという理由で、実数集合に含めることができない。

εδ論法によれば「瞬間」は、どんなに小さな時間幅Δtよりも狭い時間幅0<dt<Δtと考えることになるが、実世界を考えるとこのdt、実世界で実体の配置がとる状態であると解釈することができる。

物理学は実験データから法則を得る活動*5と、この法則に基づいて自然現象を説明する活動*6とからなり、この二つがバランスをとりつつ成長してきた。ここで理論物理学の活動を、(有限な)観測データから法則を帰納的に得る活動として特徴付け、実験物理学の活動を、帰納的な法則を一つの仮説として、この仮説の妥当性を演繹的な方法を使って確認する活動として特徴付ける。このとき、物理学の研究活動は次の図式で書かれる。

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この図が、モデルの理論における数学的構造に対応する。数学的構造を観察対象とする部分に対応する図式は、この図式を構成する各要素の特性を与えるものになる。*7

 

この図には、一つの自然現象が三つの形をとって現れている。

原型:自然現象そのもの

対象:対象に関する観測データの集まり

模型:仮説としての理論から創られた模型

 

物理学ではこの三つの形が、いつでも、誰にも、どこでも一貫するように、次の工夫を育ててきた。

  • 実体のもつ特徴は、決められた単位が付いた量を使って表す。単位は物理学に係わる全ての参加者に共通に決められている。
    • 例えばMKSA、メートル、キログラム、秒、アンペア
  • 特徴を測定する計測器は、共通の測定精度が定義され、精度を校正する手段が与えられている。
  • 物理法則は、単位付きの量の間に成立する数学モデルを使って書かれる。変形の過程に拠らず、結果は同じになる。

 

物理学が扱う自然は(哲学的に言えば)、観測の結果与えられる対象か、あるいは、理論から構成される模型であり、実体ではない。この三者は、理論が受け入れられるものであれば、観測の範囲で区別がつかないはずのものとなる。実際、例えば高所から金属球を落とす実験では、金属球は、運動中に形が変わらないものとして扱われ、重心に全重力をかけ、重心点の運動として模型化される。

 

音楽は実世界である役割を負いつつ継承され、発展してきた。そのため、実世界との係わりを与える仕組みを欠いた理論を適用しても、期待する結果には届かないのではないかと考えている。例えば、音の高さを時間に沿ってグラフ化した場合、そのグラフを五線譜が使っている仕組みをそのまま使って階段化しても、もとの歌とは異質なものになるだろう。結局、与えられた音楽のもつ性質を調べて、その性質を書きやすい言語*8を設計し、実装して、実際に音楽を記録して、さらに詳しくその音楽の性質を調べる、という活動を継続することになるのだろう。

 

筆者には日本音楽について心配事がある。日本音楽はこれまで、継承する団体が相互に係わることなく自由に展開してきた。そのため、全体像を聞かれると回答がとても難しい。こういった場合、きわめて浅い理解で考えがちになる。例えば、日本の歌については、7拍と五拍の組み合わせということはよく知られているが、様々な歌の、それぞれの唱え方にはどのような共通性と個性とがあるかを考えると判らなくなる。浅いイメージが先行して、例えば御詠歌というと高齢者の歌う何か、位のイメージになってしまうのだが、譜を見てみると声明の古博士の書き方に準拠していてますます遠い存在になってしまう。

古い写真が色あせるように記憶が消えてゆくとしたら、日本語の文化資産を失いという意味で惜しい気がするので、情報民族音楽学という活動がこれからも続けられるようなら、日本の歌の記録を整理してみたいと思っている。

 

追記

実際には、家族の介護などがあり、なかなか作文の時間がとれないという事があるのだが。

*1:Russelのパラドックス。この証明が一貫性を以って成立すると集合論は矛盾していることになる。

*2:集合より上位の、クラスとなる。

*3:一階述語論理式の形をした文字列

*4:ここの論は観察結果を整理して纏めたものであり、科学哲学との係わりは意識していない。

*5:理論物理学

*6:実験物理学

*7:検証に成功すれば成功例として記録し、充分な成功事例が蓄積されればその法則は「認められる」ものと認証し、失敗すれば失敗例として記録し、原因を解析する。法則に原因があるという結論が出た場合には、旧法則とは別個に、新しい法則を求める帰納的手続きを開始する。旧法則が誤りであったのではなく、検証に使った条件にはその法則が適合しない、ということ。

*8:その言語の自然な書き方で、特質を歪めることなくその音楽を書ける。ここで言語には、例えば楽譜、注釈付きグラフを含む。

兼常清佐の日本民謡研究を再興する方法と科学的音楽研究

兼常清佐日本民謡研究は、柴田南雄著「音楽の骸骨の話*1」の6章に紹介がある。この6章にも、計算機を使った最近の民謡研究と思いたくなるような、次の図表が掲載されている。

‐ある歌に現れる各音を、音の高さ毎にその延べ時間をとったグラフ(2点)

‐音節ごとに持続時間を測って得た表(1点)

‐民謡の声の高さ・長さを、実測値と五線採譜結果が示す五線譜上の値と比較した図(3点)

‐民謡の声の高さを時間軸に沿って描き、ガウス関数を区分的に当てはめた図(1点)

‐民謡の歌詞を読んだ声につき、声の高さを測ったグラフ(1点)

‐民謡の声の高さの、実測値、五線譜上の値、ガウス関数の当てはめの三つで比較した図(1点)

兼常の研究は下記の出版物にまとめられており、手に入りにくいものではあるが、読むことは不可能ではない。

兼常清佐遺作集刊行会編刊、兼常清佐遺作集、第一部、1960年11月

また、兼常の随筆については次に纏められている。

杉本秀太郎編、音楽と生活 -兼常清佐随筆集‐、岩波文庫青190-1、岩波書店1999年11月8日第2刷

 

そこで、研究の詳細は上記の文献を参照いただくこととして、研究方法の要約を以下では作ってみた。図的に纏めると、兼常の研究の活動は次の図式で表される。

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ここで、次に注意する。

‐音楽は音の波形をサウンドトラックに書きこんで記録する。

‐波長はフィルム上の波形を顕微鏡で観察して求める。

‐声の高さは波長から手回し式計算機で求めた数値を、10データを平均して決める。

‐「音楽と生活」に、兼常がフィルムに波形を描いて声の合成を試みた、とある。

‐波形を描いて声を生成する実験は上手くゆかなかったとあるので、点線で記した。

 

上記の図式を情報技術に基づいて再現する方法として、容易に次の図を想定できる。

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ここで、音楽の制作のための技術にも候補はあるので、点線を実践に置き換えている。

音楽音響の特徴抽出と音楽の合成には次を使う。

‐音声の分析/合成系*2

‐自動採譜系と自動演奏系との組み合わせ

‐操作者の判断を組み入れる機能をもつもの。

Toolkitに含める機能には次がある。

‐目的の声に焦点を合わせ、混合音声から目的の声を分離する技術*3

‐焦点を当てている音声区間を取り出して、詳しく特徴を見る技術

‐対象とする音楽の音の動きを見易く表記する楽譜を設計して、編集系を纏める技術

‐対象とする音楽の音の動きから音楽音を合成する技術

一つの目標設定には、この辺りまでを目標に具体的にToolkitを作って音響データを分析する、がある。この目標設定では兼常の研究における、「民謡の科学的研究の姿勢」を、音の波形として記録された音楽がもつ性質を数値的に分析すること、と考えたことにあたる。音の波形は特定の音楽の約束事から独立した客観性をもつことから、「民謡の科学的研究」の一つの考え方を与える。

 

ところで、音楽音の波形は、演奏の結果発生する物理的現象としての音を記録するものではあるが、「音楽」を記録するものと言えるものなのだろうか?ある音楽の音と、その音楽の音ではない音とを区別するのは音楽音に係わる基準であるはずであるが、この基準は音には書かれていない。例えば、音を外す、音を間違える、雑音が入る、等は全て、現象としての音をその音楽の音と認定する基準に照らし合わせた人が結果として判断するものであり、この基準は物理現象としての音だけからはどうしても出てこない。*4

 

音楽音に係わる基準は、その基準を決めた関係者の判断(音楽史に書かれている)、基準の実際(音の高さなら調律法、音の安定性なら節回しのパターン、音の特性に影響を与える特性と規程の強さ・優先順位*5)などの側面がある。これらの情報について、様々な資料から必要な情報を集め、言語により書きとめて、整理する作業をとおして初めて判るものであり、五線譜で書けば判るというものではない。

音楽音に係わる基準を様々な資料から構成する作業は、ある意味、自然科学者が観測データから自然法則を帰納する活動と似た面がある。データを説明する仮説を出し、データがない現象がこの仮説で説明できることを確認し、説明できれば仮説を受け入れ、説明に失敗すれば仮説を再検討する。

このような活動を音楽の資料に対して実施できれば、これも「音楽の科学的研究」と言える活動になるのではないかと、筆者は考えている。

ある程度の検討は行ってみたので、次は、自然科学の活動の図式とそこから敷衍される音楽研究の図式について述べてみたい。

*1:AMAZONでは古書の扱いになっている。ASIN: B000J8K7FQ

*2:通常Vocoderと呼ばれる技術。声の特徴パラメタとして、線形予測係数、ケプストラム、など様々な技術が開発され、既に実用化されている。

*3:筆者在学時に考えていた機能がこれに当たる。

*4:音楽演奏のサンプル数を充分多くとれば、ある確率で判断できるという論はあるが、基本的な約束事である音楽音に関する基準が不明の間は断定ができない。

*5:五線譜なら高さは絶対的、長さは演奏家の判断をある程度許す、強さは長さよりもう少し演奏家裁量権がある、などの

地理B でムーミンが出題されて

地理Bでムーミンが出題されていろいろな反響があったようです。

もと記事は「センター試験地理「ムーミン」出題が話題 不正解受験生嘆き 公式ツイッター「反省」」

そこでこの記事をネタにちょっと雑談。

 

近代のフィンランドは、スェーデンの支配下にあった時代、ロシアの支配下にあった時代を経て、1917年に独立して今年がちょうど100年目になります。独立の時に言われていた次の有名な標語があります。

「われわれはスウェーデン人ではない。

ロシア人になる意思はない。

われわれはフィンランド人として生きる。」

(という内容をフィンランド語で)この標語は、この辺の国際関係を反映しています*1

 

フィンランドがロシアから独立するに際して、支配者として復権する目途のないスェーデン系フィンランド人の立場は微妙だったようです。とはいっても現在、フィンランドではフィンランド語とともにスェーデン語も公用語として扱われており、地名も双方で書かれています。

で、この辺を抑えないまま作者の名前T.ヤンセンを見ると、スェーデン人の名前(ノルウェー語はスェーデン語ととてもよく似ている)に見えてしまう、ということはあったのかとも思います。

 

それにしても、外国文学を日本語に翻訳するときに、もう少し原型に忠実な訳が添えられないものか、と思うことがあります。

ニルスのふしぎな旅」にしても、原題を直訳すると「ニルス ホルゲルソンの素晴らしいスウェーデン騎行」のようなものになり、乗って旅をする馬としての鵞鳥のモルテム、子供から青年への成長というすばらしい結末を暗示します。また、もともとは地理の副読本として書かれたようなので、それでスェーデン各地を旅行するという内容になっています。地理の副読本としてこういう内容のものが書かれている、という目で読み直すのも一興かと。

また、ムーミンというのは所有格形のはずなので、原型と内容とがどういうものかを手繰ると、原型を元に作者がどのような創作をしたのかが見えてくるのではないか、とも思います。例えば、平坦な地形のフィンランドで「ムーミン谷」がどこにあるのか、のような。

 

ともかく、こういう出題にぶつかった経験も、後で何かに役立てるきっかけにして、無駄なものにしない事が大切。

*1:因みに、フィンランドとロシアの国境のロシア側にはキリル文字で書かれたフィンランド語の地名が目に入ります。

科学的な音楽研究

さて、「兼常清佐の、民謡の科学的研究への姿勢」を受け継ごうと企てると、まず、民謡の科学的研究、という言葉をどう意味づけるかが問題になる。以下で検討する。

 

日本語には冠詞がないので*1書きにくいのだが、「民謡の科学的研究」という語句がもつ内容には基本的に次の九つの選択の余地がある。

冠詞なし不定冠詞定冠詞}民謡の{冠詞なし不定冠詞定冠詞}科学的研究

ここで、其々の冠詞は英語に倣って、語句の内容について次の規定を行うものとする。

‐冠詞なしは、概念的な内容。そもそも論、哲学的な議論。

‐不定冠詞は、具体的な内容。研究で取り上げる内容を具体的に指定して議論する。

‐定冠詞は、特定の内容。例えば兼常の研究を兼常の装置で再現する。科学史的な議論。

そこで

1) 民謡とは何か、科学的研究とは何か、民謡の科学的研究とは何か

2) 民謡というものの(ある)科学的手法による研究

3) 民謡というものの(特定の)科学的手法による研究*2

4) (ある)民謡を研究するための科学的研究とは何か

5) (ある)民謡を(ある)科学的手法で研究すると何が判るか

6) (ある)民謡を(特定の)科学的手法で研究すると何が判るか

7) (特定の)民謡を研究するための科学的研究とは何か

8) (特定の)民謡を(ある)科学的手法で研究すると何が判るか

9) (特定の)民謡を(特定の)科学的手法で研究すると何が判るか

 

筆者は「民謡の科学的研究」につく冠詞については次のように考えている。

兼常の研究を継承するにしても、使うシステムは最新の情報技術を使って再構成するつもりでいる。従って、科学的研究に付く冠詞は、冠詞なしでも定冠詞でもなく、不定冠詞付きの形になる。日本語には不定冠詞はないから、考えている「科学的研究方法」はきちんと提示しなければならない。

 

音楽という対象については次を考えている。

基本的な問題意識は次の通り。

上代の声楽曲に次の四つのグループを識別する*3

  1. a) 日本固有の声楽曲
  2. b) 奈良仏教の声明(サンスクリット語による声明、梵賛)
  3. c) 平安仏教の声明(漢語による声明、漢賛)
  4. d) 鎌倉以降の仏教の声明(日本語による声明、和賛)

 

科学的研究については次を考えている。

科学的研究とは、研究の対象と同一視できる模型を創作し、模型の観察を以って対象の観察と見なす論考を言う。模型が対象と同一視できることはその科学的理論が保証し、その科学的理論が保証する観察法による限りは模型と対象とは区別できないものとなる。

但し、科学的方法では、模型を制作する基礎となる理論を対象の有限的な観察結果から帰納的に導く。従って、理論はあくまで仮説であるから、模型が対象とは違う振る舞いをすることが起こりえる。模型の振る舞いに疑問が起こった時には、仮説を棄却することがある*4

 

この大きなゴールに対して、出来そうな目標としては次を考えている。

日本の音楽について文書を起稿し印刷する際に使う文書構成要素*5を丹念に揃える。ここで「丹念に」という言葉は、品ぞろえだけでなく、デザインの標準化を含む、という意味に使っている。

*1:筆者自身は漢字仮名交じり文が日本語の表記法として固定する際に、接頭語の影響力が薄れたことが、日本語に冠詞相当語句が現れなかった原因ではないかと想像するが、それはともかくとして。

*2:例えば兼常の方法を様々な民謡に適用する。

*3:但し、時代区分には誤解があるものと思う。要は、歌詞の言語が置き換わったときに旋律がどのように継承されたか、仏教以前の上代歌謡の音階を含めて、相互関係を調べてみたい、という問題意識。

*4:古典力学に対する量子力学相対性理論

*5:複合文書を想定すると、テキストばかりでなく、文書レイアウト、図記号、楽譜、音データなども想定される。

音楽と科学

手元に「音楽と数学の交差*1」という本があり、同じカテゴリに入る本がどのくらいあるかを検索してみたらAMAZON検索で14頁見つかった。音楽は昔から膨大な研究成果が積み上がっているから今さら追加するものなどあるのか、と思いたくなるのだが、筆者にとっては次のような事情があり、退職から今まで拘ってきた。

 

学校にいた頃、というとかれこれ40年位前のことになる。柴田南雄著「音楽の骸骨の話*2」の6章にこんな文章を書かれていた。

兼常清佐の、民謡の科学的研究への姿勢が、今日一人の後継者もなく、その研究成果それ自身さえ忘れられているのはまことに残念なことだ。」

兼常清佐日本民謡研究は、昭和26年までの(つまり商用電子計算機が漸く現れる時期以前の)期間に行われている。形だけ見ると、ディジタルな音声学の手法を民謡研究に適用した仕事に見える。具体的には、声の波形を映画のフィルムに記録して、顕微鏡で波形を観察して波長を求め、手動式の計算機で声の高さを求めて、歌の特性を記録している。

この手順を実行するための計算機システムを作るのは単純な作業のように見えたので、今なら後継者として活動するのも簡単だろう、などと考えていたのだけれど、事はそう単純には行かなかった・・・

 

波形として記録された「音楽」には、記録した時の環境条件*3が繰りこまれている。波形から得られる音は物理的な現象の記録であり、音楽を記録するにはそこから更にひと手間かける必要はないか。

兼常清佐日本民謡研究では、五線に採譜された民謡は採譜前の形と全く違う、という指摘がある。これには一つ異論があって、五線に採譜された民謡は「五線譜の約束に従って読む限りは」採譜前の形と全く違うものになる、という事なのではないか。言いかえると、五線譜の約束とは違う約束に従えば、採譜前の歌を読めるのではないか・・?

 

結局、なにやかや考えて、こんな結論に行きついた。

「音楽の科学的研究」は、「音楽」、「科学」に自分なりの定義を与える所から始まる。

 

言葉の直感的な定義は、具体的に比較すると、人によって違っている可能性がある。音楽を作曲家の創作物と捉えるなら、「名曲」という言葉は、同時代と後世の作曲家・演奏家に大きな影響を与えて時代を作った曲を形容するにふさわしい*4。音楽を演奏家の公演と捉えるなら、「名曲」という言葉は、聴衆に対するアピールを表す尺度*5で測るのがふさわしい。同じ言葉が全く違う内容で使われている。研究成果は社会的な資産として残るものであるなら、自分の言葉は隅々まで自分の定義で使いたい*6

 

今さらプロの研究家でもないので勝手なことをやってきて、それでもようやく、清水の舞台を遥か彼方に拝む参道に辿りついたような気分ではあります。でもいつになったら清水の舞台に立てることやら。

*1:ISBN:4272440381

*2:AMAZONでは古書の扱いになっている。ASIN:B000J8K7FQ

*3:演者の癖、伴奏音、ノイズなど。伴奏がある音楽を伴奏なしで演奏すると演者が影響を受けることもあるだろう、など。

*4:五線譜と調性は現在に至るまで影響を与え続けている。

*5:売り上げとか

*6:但し、最も基本的な言葉の定義を言葉で与えようとすると泥沼に落ち込む・・

翻訳は罪作り

どのような言葉にも辞書的な意味だけでなく様々な意味が付け加わる。だから翻訳は、原語の辞書的な意味を翻訳語の辞書的な意味に置き換えるだけではだめで、付け加わった意味が落ちたりする。歌の歌詞の場合、原詩なら可能な解釈が翻訳詩では難しくなることがある。こうなると、翻訳は時に罪作り・・ということもある。

 

シューベルトの歌曲集「冬の旅」にはいろいろな理解の仕方があって、詩の理解にはいろいろな世界観が出てくるのは当然なのだが、放送大学で笠原先生がこの曲を取り上げて解説されていた時に、翻訳詩からは考えにくいある解釈を思い付いた。

 

菩提樹の中ほどに直訳すると「冷たい風が額をうち、帽子を飛ばした。でも私はそれを取りに行くことはなかった。」という詩句が出てくる。笠原先生に拠ればこの帽子は、当時は身分証明書の役割を果たしていたという。帽子を追わなかった、ということは、社会的な身分を捨ててしまったことになり、これ以降主人公は対人関係からも自然界からも阻害されてゆくことになるのだ、という。

 

そう言えば第一曲「おやすみ」の歌詞には、「彼女は愛を語り、彼女の母は結婚を口にし」それでも自分は「見知らぬものとしてここを去る」という内容がある。親方の下で修業に励めばもしかしたら成功したかもしれない環境に何故か背を向け、身分証明としての帽子にすら愛着をもたない主人公。これを思うと、最後の2曲にはとても示唆的な内容を感じる。

 

最後から二曲目は「幻の太陽」という題で、次のような内容をもっている。「目の前の空に三つの幻の太陽が浮かんでいた。そのうち二つはもう沈んでしまい、残っているのはただ一つ。こいつも早く沈んでしまえ。」

最後の曲は「辻音楽師」という題で、主人公がふと目にとめた辻音楽師(ストリート ミュージシャン)の姿を描いている。ライアーという楽器を弾くがほとんど誰の注意もひかず、あがりもなく、凍えそうになりながらもそれでも生きるために演奏を続けている。主人公は、自分もこの辻音楽師と一緒に旅をするのが似合っているのかもしれない、と思う。

 

この「三つの幻の太陽」とは何だろうか?

 

一つの解釈として、「自由・平等・博愛」という生き方を指しているのかな、と思った。自由を求めてそれまでの生き方(親方の下)から飛び出し、平等を信じて身分証明を追わず、その結果の疎外感に「自由・平等」という太陽がすでに沈んでしまったことを感じ、あとは「博愛」に頼るほかない状況にあって、辻音楽師に共感をもつ、という。*1

 

歌曲がどこまで現実を反映しているかは良く判らないからこれは個人的な一つの解釈にすぎない。でも、シューベルトの時代は時代の変わり目で、音楽を保護する力が衰退し、作曲家は自分の作品を売って自分で生計を立ててゆかざるを得なくなっていたということは確かにあった。だから、せっかく完成していた「未完成交響曲」の第三、第四楽章を別な仕事に転用し、その結果この交響曲は「未完成」に終わった、という説もある。

 

こういう解釈は原詩の解説を聞いて初めて思い至るので、翻訳だけに頼った理解も危ういこともある。言葉がまわりにもっている意味が失われると、可能な解釈ができなくなることがあるので。そういうこともあるから、本当に思い入れのあるテキストについては、翻訳に頼るだけでなく自分で徹底的に意味に当たるとよい。面白い発見をしたりすることもあるから。

*1:ベートーヴェンの第三交響曲「英雄」にまつわる逸話なんかも思いつつ。