狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

変化の季節

今年の4月1日に最終版の記事を書いてこのコーナーを終わるつもりでいた*1。方向を急転換することになりそうなので、用意ができるまでは、タヌキノチャブクロ(茸)が風に飛ばす胞子みたいな軽い文章を書く場所を見つけて引っ越したいと思ったこともあり。

 

これまで伝統邦楽・邦楽譜についていろいろ書いてきたが結局は、伝統邦楽・邦楽譜そのものについてではなく、音楽の特徴を見やすい形に楽譜に書くことを意識していた。音楽だから五線譜で書けばいいかというと、調律、音階の構造、曲の作り、などなど、案外強い制約がある。例えば、寄席の話芸のうちには都都逸のように音楽とも語りとも付かないものがある。五線譜に採譜した民謡を集めた本が手元にあって、俗曲の欄に都都逸が載っているのだけれど、メロディを決めすぎている。五線譜で書くと語りと唄いが自由に行き交う芸を見ることができない。

 

五線譜にこだわらない記譜法を考える一般的な枠組みをあれこれ考えているうちに、モデルの理論(数学基礎論の)に倣って音楽基礎論のモデルの理論ができないか、などと思い、試行してみると出だしの所で躓く・・ 音楽は現実世界の出来事なので、数学基礎論のように概念の範囲ではおさまりが悪い。さらに、積年の疲れが最近出てきて、作文できる時間がほとんどとれず ・・

 

ともあれ、いまは変化の季節。化ける準備を重ねて*2何かを続けようとは思うが、試行錯誤の段階は終わったので、ADHDのPRを挟みこまれるような文章は、多分(^^;)、書かずにすむだろう。

*1:HAIKUに書いたがここには結局書けず。

*2:こういう言葉づかいをするからふざけ半分で書いていると思われる。

研究者の真似をしてみる

いろいろと書きものをしていると、そろそろしっかりした内容を残したくなってくる。

情報民族音楽学のように内容が異なる二つの領域に係わる場合、軸足の置き方で活動内容が全く違ってくる。当然、資質的に筆者が係われない活動というものもあるので、軸足の置き方一つにも油断がならない。研究です、などとおこがましいことは考えずに、まずは研究の真似ごと、という位置付けではじめるのがよいのかも。

上代歌謡を本気になって調査しようとすると、世界に数冊、極端な場合にはそれ一冊しかないような文書を開くようなことも起こる。こうした場合、資料に寸分の傷も残さず*1、目的の調査を完了するのは最低限の要請となる。そんなにまで気を使う資料を読むには、当然、文献を扱う基礎的な訓練を積んでいなければならないわけだが、そんな経験はないので、こういう接近をするには資質がない。

むしろ、音楽分野の研究者から見る限りは研究者の真似ごとにしか見えない辺りから入るのが似合いなのではないかと思っている。例えば今手元に小泉文夫監修「日本と世界の楽譜」という本がある*2。この書籍には伝統邦楽の様々な分野に係わる論文が収録されており、その分野で使われている楽譜及び楽譜をつくる図記号がたくさん収録されている。この中に採録されている論文を一つ一つ、Wordかなにかの文書清書系を使って電子ファイル化してみようかと思っている。

何を今さら、と思われそうだが、もちろん、文書を書写することが目的なのではなくて、そこに現れる語彙・図記号を集めることを目標としている。というのは、こういう分野で活動して文書を作る時に、語彙・図記号のある無しが文書作りの閾の高さに影響すると思われるから。特にその論文には明確な定義がない語句・図記号は、その分野にいる人には常識なのだろうけれど、その分野の外にいる人には誤解を生むもとになることもあると思える。例えば、伝統邦楽の「旋法」を「音階」のように五線譜に書くことがあるが、この五線譜表記は無定義の図式の一例と言える。理由は「旋法」を「音階」のように五線譜に書いてしまうと、「音階」の各音は平均律の音の高さで、高さを一定に保って、演奏されることを暗示してしまう。

そういう訳で、論文の電子ファイルを作り、無定義で使われている語彙・図記号には解釈のためのガイドラインを添えて、必要ならプログラムを探してくるか創るかして、だんだんと情報処理のための環境を創りつけてゆこうか、などと目論んでいる。

 

手始めの段階だからどっちつかずではあるが*3、来年の今頃には何か残せていると期待しよう・・ (^ ^;)。

*1:もちろん染みなど付けるのは論外

*2:楽譜の世界3、日本と世界の楽譜、編NHK交響楽団、監修小泉文夫日本放送出版協会、昭和49年9月20日第一刷

*3:尤も情報系の言い分としては、実装でなく設計に重点があります、という逃げもあるが。

語り歌い

日本の音楽は歌が主で、しかも、語るような歌いくちが特徴的に思える。もちろん民謡の中には八木節のように歌そのものという曲があるが、同時に江差追分(一般に追分節と呼ばれているもの)のように語りに近い歌い方がある。こういう特徴が判りやすい、外国語の言い方があるだろうか?こういうことを考える時には、同時代や同じ地域だけに目を向けているとあまり面白いものにぶつからない。時間と空間を越えて想像力を働かせてみると、意外なものを見つけたりもする。以下、筆者がふと立ち止まった項目などを。

 

声だけの音楽と楽器の音楽とを比べると、声だけの音楽は楽器の音楽と比べて未発達と思いたくなりがちだけれど、必ずしも的を得ていない。要はそれぞれの完成度の問題。

 

古代のギリシャ詩人ホメロスWikipediaでひくと、吟遊詩人であり、携帯型のチターと形容できそうな楽器を演奏しながら語る像*1が掲載されている。これなどを見る限り、琴のような楽器を奏でながら詩を唱えるというスタイルが紀元前6世紀ごろのギリシャにあったことが見て取れる。

日本の縄文時代には、和琴を弾く人物の埴輪が残っている*2。この像が演奏している音楽についてはおそらく判ってはいないのだろうけれど、何かの詩を唱えていた姿であることは想像に難くない。

さらに、フィンランドの民族叙事詩カレワラに出てくるカンテレの由来などを見ると、語り歌いというジャンルは、楽器の音楽とは別の分野として、多分確立している。実際、フィンランド語にはrunoという言葉があって、歌う詩を指すと記憶している。

 

では、歌う詩をどうイメージすればいいのだろうか。ここで三つのドイツ語をもちだしてみる。一つはSprechGesang、一つはSprechStimme、最後にSprechChor。

SprechGesangはシェーンベルクがいくつかの作品で使っている語り歌いの技法であり、譜を見ると、×記号が旗についた音符が書いてある。この音符は、開始位置では正確な音高を取ってその直後にその高さから離れ、歌と朗読の双方の表現力を追求することを示す、という。SprechStimmeは、直訳すれば「語る演奏」だけれど、SprechGesangと同じ意味で使う。SprechChorは、直訳すれば「語る合唱」であり、シェーンベルクのオペラ「モーゼとアロン」の出だしの所で使われている、五つの声から構成されるSprechGesangを連想するが、日本語では音楽の分野より労働運動の分野の用語(シュプレヒコール)になっている。

西洋の音楽は楽器が主体で、声の出し方は楽器に従うものになっているので、SprechStimmeの意味ははっきりしない。日本の伝統邦楽では楽器が声に従っているようにも見える位に、どの楽器も、ポジションを構えつつもそのまま音の高さを調整できてしまう。こういう特性は、SprechStimme的な特性と言ってもよいにではないか。さらに、催馬楽のような音楽では、声を主導する先導者一名が歌い始め、譜に「付所」という指定がある所で参加者(多数)の声が入ってくる。このあたりの表現は、労働運動の意味でなく、ドイツ語の直訳の意味でのSprechChorと言ってもよいのではないか。

 

こんなことを思いながらSprechStimmeを検索していたら、国立(くにたち)音大の研究者がSprechStimmeを研究し、論文を発行している事が判った。こういう先行研究は、自分が使う言葉をどの領域に着陸させるかを決めて、その領域を読者に示す意味で、重要なステップになる。いつかは通過しなければならないのだが、なかなか思い切れない。

*1:フィリップ=ローラン・ロラン作

*2:参考、山田光洋著、楽器の考古学、同成社1998年12月、表紙

ようやく最初に戻る

これまで手掛けてきたことをメモ的に書いたものがあって、そこにはこんな内容が散らばっている(^ ^;)。

‐Word版催馬楽譜「あなたふと」

催馬楽譜と催馬楽曲の五線採譜とを比較する、というアイデア

民族音楽を五線採譜する際に使われる特殊記号の例

‐様々な伝統邦楽譜の例

これらが電子化されたとして、それがいったい何になるのか、という芯の部分がはっきりしていなかったのでいろいろ迷ったのだが、ともかく所与の印刷物をそのままの形で電子ファイル化することにも意味がありそうなので、はじめに戻ってメモの整理を続けよう。

 

ここで、催馬楽譜と催馬楽曲の五線採譜とを比較する、というアイデアをもう少し詳しく書くと、次のように比較資料を作っている。

催馬楽譜と催馬楽曲の五線採譜とを比較する際に、歌詞を共通の構造として取る。

‐歌詞の言葉毎に、催馬楽譜と五線譜との双方から音符を切り出して対照する。

こうすることで、催馬楽譜に書かれた抑揚の指示が実際どう具体化されているかを見ることができるはずである。

 

この目論見は、アイデアをメモ的に書いていた時には今一つ良く判らない所で止まっている。当時は、五線譜採譜の方の資料が数小節分しかなく、なおかつ、声の高さを調律する基準、音を五線譜に乗せる規則、など、肝心なところが判らないままだった。最近、催馬楽楽の五線採譜に関する成果がオンデマンド出版で刊行されていることに気付き、入手することができた。この資料には声の高さを調律する理論が書かれていて、これによれば、声の高さの理論値を計算できる。

上代の楽譜は目安として使われている場合が多く、それがどう具体化しているかは音を聞いてみなければわからない。五線譜からはこの具体化の様が見えてくるのではないか。こういう譜の扱い方は、西洋風の、譜を演奏家が解釈して一つの譜から多様な表現が得られる、という考え方とは違うように見える。おそらく伝統譜は、口伝が発散することがないように、という基準の意味で使われたのではないか。

それにしても、五線譜には五線譜の解釈の基準があるので、隣接する二つの音符の間の音程がどうなっているかなど、気になる部分がある。この辺りを見るには、声の調律から見える、声の高さの基準値が役に立ちそうに思う。

 

ところで、これから先どこに向かって進むか、という話があるが、筆者は実家が真言宗の智山派に縁があることもあり、真言声明について詳しく調べようかと思い始めている。

ノートは大切に

(^ ^)つ

今はどんなに荒唐無稽でも、できたら面白いだろうな、と思ったことは何かに書きとめておいて、忘れないように折節、眺めて改良しているといつかは手が届く形になる。このときに、世間の状況が変わって手が届くようになったのに、自分の着想を描いた肝心なメモをなくしてしまったら、ちょっと目も当てられない事になる。ノートは大切に、うっかり捨ててしまわないように。

 

筆者は1980年頃、「日本民謡定量的研究」という表題を書き込んだノートを作っていた。この表題は、柴田南雄が著書「音楽の骸骨の話」の中で兼常清佐日本民謡研究に触れて、「兼常の科学的研究の姿勢がその後引き継ぐ者もないばかりか忘れ去られようとしているのは惜しい」という内容のコメントを書かれている事を見て、受けてみようかと思ったことがきっかけになっている。

 

いろいろ紆余曲折があって *1 手掛けられないまま今に至っているのだが、最近になって、もう一回手がけてみたくなった。で、さて、このノートを探したのだが、見当たらない・・

 

まぁ、2002年10月頃からのメモは一部残っているので、完全に記録を失ってしまった訳ではないにしても、やはり、いつからこんな*2ことを考えていたかを示す数字があった方が、話にもっともらしい箔がつくと言うもの。間違ってもノートは捨てるものではない、自分のためにも。

 

(^ ^)つ

ところで、「定量的研究」を唱えるなら、測る対象をはっきりと意識しておく必要があり、そのためには測る対象に係わる模型がいることは確認しておく方が良い。

信号解析して特徴量を統計処理して、という場合には、特徴量のとり方と統計モデルの設定法とが模型を特徴付けるので、今観測しようとしている対象と模型との適合性は事前に確認しておくことが絶対条件になる。案外この辺りで、適合性に欠ける常識を密輸入して、統計で嘘をつく羽目に陥ったりする。

例えば声の高さの基準を楽器で決めているなら、声の高さの実測値は楽器が決めるある定数の周りで峰のように分布すると考えてよいだろう。では、声の高さを声で決めていたら?声の高さは信号としての音の高さだけでなく、基準となる声の息遣いを組み込んだものになっても不自然ではない。何を知るためにその尺度と計測法とを選んだのか・・

 

こうしてみると、定量的な研究にはその前提に、信頼できる模型があることになる。この、模型を前提とする、という意味では、定量的な研究の研究態度は、自然科学の研究態度に近いものを感じる。この点を配慮すると、「日本民謡定量的研究」というタイトルは、「模型と計測に基づく音楽の研究法について」のように変更してもよいのかもしれない。このあたりは、紆余曲折の経験を取り入れた最近の感想*3

 

(^ ^)つ

因みに、兼常清佐日本民謡研究は、大正末から昭和26年にかけて行われた活動であり、映画のサウンドトラックに書きこまれた歌の波形を顕微鏡で観測し、声の高さを数値計算*4で求めて、歌の特徴を知るという方法論に拠っている。商用電子計算機がやっと現れた時に研究活動を終了しているが、活動内容は数値的な信号分析の方法を基礎に置いている。

 

音声分析は電子計算機が現れて以降もしばらくは計算負荷が重い情報処理の典型だったので、人手の観測と機械式計算機との組み合わせでは作業量の点で壁があり、後継者を得られなかったのも無理はない。1980年頃というと、使える計算機にはメインフレームと、信号処理向けの特別なハードウェアを付加したワークステーションとがあったけれども、高価だったり仕様が特別だったり*5して、そんなに簡単には行かない。2000年ころ、PCのユーザインタフェースに絵や音が使われるようになると、誰でも音を材料に研究することのできる環境が整ってきた。

 

では、ということで、「日本民謡定量的研究」の活動を個人的にスタートしてみた。その辺の記録は2002年のメモに残っている。しかし日本民謡の研究がもつ難しさ*6を知り、明確な課題設定がないと進みようがないと判断して、この課題を表面には出さないでいた。

 

(^ ^)つ

ところで西洋音楽にはピタゴラス、アリストクセノス以来現在に至る歴史が知られており、ギリシャ音楽の時代に音階が見出され、ローマ(イタリア)音楽の時代に複数のメロディを組み合わせて音楽を創る方法が普及し、そののち複数のメロディを組み合わせたときに同時に聞こえる音の中から良い響きが聞こえる組み合わせが見出されて調性が発見され、調性の対比によって音楽を展開する方法がドイツの古典派音楽の時代に完成する。こういう感じの音楽史が日本音楽について出来ないものかと思っている。

日本の音楽には、上代歌謡の時代、奈良仏教の仏教音楽の輸入、真言宗天台宗の仏教音楽の輸入、様々な近隣諸国の儀式音楽の輸入と日本的な形への再編、仏教音楽から説話音楽・琵琶楽の派生、能楽、歌舞伎、三味線の輸入と様々な形への進化、・・などの流れがあるという。この詳細な流れを包括的に扱う理論など考えるだに恐ろしいが、西洋音楽史にみられるように、後世に継承される基本的な特性・考え方を言うことができないか、と思うことがある。

 

こういうことが言えるとどういういいことがあるか、というと、日本音楽を外に向かって説明する語彙が整備されることがある。

一つの音楽を継承する仲間内に説明する語彙と、外に向かって説明する語彙とは当然異なる。どこが違ってくるかと言うと、一番基本的な語彙の選び方が影響を受ける。言葉のもつ内容は言葉で定義するのだが、一番基本的な内容をもつ言葉は、それを定義する言葉がなくなる。ではどうするかというと、言葉が通用する範囲を制限して、その範囲内で、メンバーが合意できる内容をもって、定義に替える。言葉でなく経験の集積が定義となる。

例えば、日本語では習慣的に、音楽を、「演奏家の」「曲名」で呼ぶ。教科書的な意味での欧米の音楽は、「作曲家の」「曲名」で呼ぶ。この背景には、前者の場合、音楽を聴くとは演奏家の所作を見ることであり、後者の場合、音楽を聴くとは文字通り音を聴くことである、という常識の違いがある。こういう、内容が異なる無定義用語を巡る、言葉に拠る会話は、基本的に収斂しない。

外に向かって言うための語彙が整備されれば、共通の語彙を使って語り合うことができて、お互いの音楽が何を語るのかを知る手がかりが得られるのではないか。

 

とは言ってみたものの、これから動き始めて、はたしてどこまで行きつけるやら。それもこれも、研究ノートを軽んじた報い・・・

 

(^ ^)ノシ

*1:1980年より前には基礎研究に牧歌的な空気があったが、それ以降は収益に繋がる道が見えない話はできない環境になっていった。

*2:しょうもない^^;

*3:日本民謡」という言葉を「音楽」という言葉に変更した理由は、日本音楽を研究対象とすることの難しさを感じ始めていることによる。日本音楽は継承する家が決まっていて、継承者は家の名誉にかけて日々の訓練に励んでいる。こうして継承されている音楽には、家の外から何かを言うことがとても難しいことになる。伝統邦楽の世界では、他家の音楽に口を挟まないという不文律があるという話を読んだことがある。

*4:手回し式の計算機を使う

*5:同業の研究者の間でプログラムやデータを交換しようと思った場合には、それぞれの計算機の仕様に合わせて、手を加えることになる。

*6:前に書いたとおり

数学的構造と物理学の図式と音楽の研究

前回示した数学的構造と物理学の図式とを比較して、科学的音楽研究が従う手順のあり方を検討する。

 

モデルの理論では観察対象とする数学の研究活動を、数学的構造を使って記述する。数学的構造は、下図で、上側に設定された囲みの中に書かれている。知見と書いた部分には数学的命題を一階述語論理式で書き表したもののうち、記号列部分が入っている。この記号列は理論から証明されることになっており、同時に対象に含まれる数学的命題に対応づけて真偽が決まることになっている。この設定が、対象とする数学の分野における未解決問題でどうなるかは微妙な所があるが、言語Lを完全かつ健全にするという条件を満たす一階述語論理式と数学的命題とを予めつけ加えておくことで、数学的構造上は未解決問題がなかったことにする。その代償として、全体として見ると、対象及び知見の要素が判りやすいものではなくなる*1

f:id:Y_Shigaraki:20180123211049j:plain

物理学の図式では、対象に対する観察、記録が有限的な活動であることを前提として、理論(法則)は帰納的に提案されるものとしている。対象という項目には、研究の対象としている実体の観測をとおして得られた実体の特性(観測データ)を収める。この、実体の特性を観察し、言語をつかって記録し、対象に関する知見を得る。この知見を整理、体系化して、理論(法則)を纏める。この法則は、観測された特性だけが支えるものではなく、一般化(抽象化)によって、観測の対象にならなかった特性が係わる場合にも成立すると見なされる。例えば、「力=質量×加速度」という法則*2は、力、質量、加速度という言葉の具体的な例示になっている場合には、常に成立すると見なされる。この帰納的手続きは観測に依存するので、He原子のように目に見えない対象物に適用して成立するか否かは自明ではない。そこで、物理学では、帰納的な仮説である法則が成立することを確認するための実験が行われる。また、検証条件を記述する理論式には物理模型が対応づけられる。検証の成功を判定する条件は、この、実体、対象、模型の三つの要素が観測のための測定の範囲では同一視可能であることとなる。

f:id:Y_Shigaraki:20180123211201j:plain

数学的構造には、実世界の実体を観測して得られた像に相当するものはない。物理学の図式から見れば、数学の分野では実世界の実体を観測して得られた像に相当するものの寿命が長く、いったん像が成立すれば特に変更する必要が起こらない、という事情が考えられる。

但し、希に変更の必要が起こることがある。例えば実数値関数fの微分df/dxで、df、dxは実数ではあり得ない。この場合、実数概念を拡張する道を選ぶと、実数という像を変更することになる。この道は、実際、A. Robinsonによって、Non standard analysisという理論の中で纏められている。従来の実数の範囲を変更しないなら、df、dxは数学理論の外に置いて、εδ論法により議論することになる。このような変更があることを考えると、数学の理論を帰納的に提案された理論と考える立場があってもいいような気もする。

 

ここで音楽を研究の対象とする場合を考える。音楽には、表現(音楽の音)、表現に対する要件(これを記載した文書としての楽譜)、表現の具体例(演奏音であり、表現の模型と言ってもよい)の三つの要素がある。この三つの要素を物理図式の実体、対象、模型にそれぞれ対応づけると、筆者としては、落ち着きがよいと考えている。これは例えば伝統邦楽を観察する時には、五線譜に採譜するのではなく、語義*3を曖昧にしたまま伝統譜に従うのではなく、対象を観察し、対象が従う法則を見出し、法則を確認し、必要なら法則を修正するという活動を行うことに当たる。

 

*1:追加が可能ならゲーデル不完全性定理が成立しないことになる。

*2:Newtonの運動法則の第三番

*3:例えば伝統的な旋法である「宮、商、角、徴、羽」を安易に音階と同一視しない。

研究活動を観察する目で見た数学と物理

「音楽の科学的研究」という言葉に具体的な内容を盛るには、まず、「科学的研究」を観察してその特徴を明かすことが必要になる。「研究活動」を研究する分野にどのようなものがあるかと言うと、情報科学の関係者にとっては、情報科学の源流を手繰った先にある数学基礎論が目につく。

数学基礎論が注目される発端は、数学の基礎の所にある集合論に、論理的一貫性に関する疑いが出たことにある。集合論を公理的に書こうとして、すべての集合を要素に持つ集まりをxと書き、この(明確に定義されたものの集まり)xを集合と認定すると、x∈xとその否定¬x∈xとが同値であることが証明される*1。後に、すべての集合を要素に持つ集まりは集合にはならない*2ことが判って、集合論が矛盾することはないという結論が得られた。この結論に至るまでに、数学基礎論が重要な役割を果たす。

 

数学基礎論の部門の一つにモデルの理論がある。ここでは数学の研究活動を次の図のように捉えている。

数学の研究活動は下記の図式に拠り行われる。言語を使って対象を書く点がポイント。

f:id:Y_Shigaraki:20180123211111j:plain

図の出典

月刊マセマティックス SYMPOSIUM2 数学基礎論 海洋出版株式会社

本橋信義著、モデルの理論、122頁図3に基づき作図。

 

モデルの理論はこの図を観察対象とする活動として導入される。図式的には次のとおり。

 

f:id:Y_Shigaraki:20180123211049j:plain

出典

月刊マセマティックス SYMPOSIUM2 数学基礎論 海洋出版株式会社

本橋信義著、モデルの理論、123頁図6に基づき作図。

 

数学上の未解決問題の扱いは一つの問題であるが、モデルの理論では、言語L*3上で完全かつ健全となるように、論理LOに言語Lの文を補っている。その結果、論理LOの健全性・完全性が保証されるが、具体的な判り易さが失われる。(ゲーデル不完全性定理とは前提が異なる。)

 

音楽は演奏という具体的な行為により生成された、音という物理現象が運ぶ何者かであると言える。この実世界における具体的な存在を捉える仕組みが、モデルの理論の枠組みには欠けている。そこで、数学基礎論の発想を尊重し、かつ実世界との対応関係を設定できるように、物理学の研究活動を観察対象とする基礎論を考えてみる。実体と観測という要素を追加して、次の図式を作る。

f:id:Y_Shigaraki:20180123211135j:plain

「実体」(実世界の要素)を追加する理由は、例えば次のとおり*4

速度を定義するために使う「瞬間」dtは、どんな小さな正数より小さいという理由で、実数集合に含めることができない。

εδ論法によれば「瞬間」は、どんなに小さな時間幅Δtよりも狭い時間幅0<dt<Δtと考えることになるが、実世界を考えるとこのdt、実世界で実体の配置がとる状態であると解釈することができる。

物理学は実験データから法則を得る活動*5と、この法則に基づいて自然現象を説明する活動*6とからなり、この二つがバランスをとりつつ成長してきた。ここで理論物理学の活動を、(有限な)観測データから法則を帰納的に得る活動として特徴付け、実験物理学の活動を、帰納的な法則を一つの仮説として、この仮説の妥当性を演繹的な方法を使って確認する活動として特徴付ける。このとき、物理学の研究活動は次の図式で書かれる。

f:id:Y_Shigaraki:20180123211201j:plain

この図が、モデルの理論における数学的構造に対応する。数学的構造を観察対象とする部分に対応する図式は、この図式を構成する各要素の特性を与えるものになる。*7

 

この図には、一つの自然現象が三つの形をとって現れている。

原型:自然現象そのもの

対象:対象に関する観測データの集まり

模型:仮説としての理論から創られた模型

 

物理学ではこの三つの形が、いつでも、誰にも、どこでも一貫するように、次の工夫を育ててきた。

  • 実体のもつ特徴は、決められた単位が付いた量を使って表す。単位は物理学に係わる全ての参加者に共通に決められている。
    • 例えばMKSA、メートル、キログラム、秒、アンペア
  • 特徴を測定する計測器は、共通の測定精度が定義され、精度を校正する手段が与えられている。
  • 物理法則は、単位付きの量の間に成立する数学モデルを使って書かれる。変形の過程に拠らず、結果は同じになる。

 

物理学が扱う自然は(哲学的に言えば)、観測の結果与えられる対象か、あるいは、理論から構成される模型であり、実体ではない。この三者は、理論が受け入れられるものであれば、観測の範囲で区別がつかないはずのものとなる。実際、例えば高所から金属球を落とす実験では、金属球は、運動中に形が変わらないものとして扱われ、重心に全重力をかけ、重心点の運動として模型化される。

 

音楽は実世界である役割を負いつつ継承され、発展してきた。そのため、実世界との係わりを与える仕組みを欠いた理論を適用しても、期待する結果には届かないのではないかと考えている。例えば、音の高さを時間に沿ってグラフ化した場合、そのグラフを五線譜が使っている仕組みをそのまま使って階段化しても、もとの歌とは異質なものになるだろう。結局、与えられた音楽のもつ性質を調べて、その性質を書きやすい言語*8を設計し、実装して、実際に音楽を記録して、さらに詳しくその音楽の性質を調べる、という活動を継続することになるのだろう。

 

筆者には日本音楽について心配事がある。日本音楽はこれまで、継承する団体が相互に係わることなく自由に展開してきた。そのため、全体像を聞かれると回答がとても難しい。こういった場合、きわめて浅い理解で考えがちになる。例えば、日本の歌については、7拍と五拍の組み合わせということはよく知られているが、様々な歌の、それぞれの唱え方にはどのような共通性と個性とがあるかを考えると判らなくなる。浅いイメージが先行して、例えば御詠歌というと高齢者の歌う何か、位のイメージになってしまうのだが、譜を見てみると声明の古博士の書き方に準拠していてますます遠い存在になってしまう。

古い写真が色あせるように記憶が消えてゆくとしたら、日本語の文化資産を失いという意味で惜しい気がするので、情報民族音楽学という活動がこれからも続けられるようなら、日本の歌の記録を整理してみたいと思っている。

 

追記

実際には、家族の介護などがあり、なかなか作文の時間がとれないという事があるのだが。

*1:Russelのパラドックス。この証明が一貫性を以って成立すると集合論は矛盾していることになる。

*2:集合より上位の、クラスとなる。

*3:一階述語論理式の形をした文字列

*4:ここの論は観察結果を整理して纏めたものであり、科学哲学との係わりは意識していない。

*5:理論物理学

*6:実験物理学

*7:検証に成功すれば成功例として記録し、充分な成功事例が蓄積されればその法則は「認められる」ものと認証し、失敗すれば失敗例として記録し、原因を解析する。法則に原因があるという結論が出た場合には、旧法則とは別個に、新しい法則を求める帰納的手続きを開始する。旧法則が誤りであったのではなく、検証に使った条件にはその法則が適合しない、ということ。

*8:その言語の自然な書き方で、特質を歪めることなくその音楽を書ける。ここで言語には、例えば楽譜、注釈付きグラフを含む。