読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

アルゴリズムとソフトウェア

狸系の目

音楽をジャンルから独立した表現法-例えば波形なり、音の特徴パラメータなり-で表現してこれを基礎資料とする。こうすると、この基礎資料を使おうとする人は誰でも計算機プログラム(以下プログラム)を書かねばならないことになり、閾が高い。この事態をどう考えるか。

 

情報技術にはよく似た言葉がたくさん出てきて最初は面食らう。例えばプログラムには、アルゴリズム、ソフトウェアという言葉がある。プログラムは具体的なものを指すが、アルゴリズムとソフトウェアとはどこで区別するか。

筆者は、アルゴリズムはそれ自身で完結した定義をもつ計算手順を指し、他方ソフトウェアは実世界の問題解決のために創作された計算手順を指すと考えている。この定義から、ソフトウェアを制作するにはまず、実世界の問題を定式化するところから始まる。

よく言われる分類基準に拠れば、ソフトウェア制作手順は、要件定義、外部設計、内部設計、コーディングからなる。ここで要件定義は考えている問題を書きだす手順、外部設計は書きだされた問題を部分問題に分割し、各部分問題間で交換される情報を明確にする手順、内部設計は各部分問題を解決するプログラムコードの大きな纏まりを明確にする手順、コーディングは内部設計で与えられた纏まりに計算のためのコードを与える手順を言う。この制作手順に先行して実世界で行われている業務があり、この制作手順に続けて試験と運用が行われる。実世界の業務は更新されることがあるので、ある時点でソフトウェアの前提となる業務の定義からは乖離が起こる。その場合には、要件定義に始まる手順を再試行する。*1この辺りを下図に示す。

f:id:Y_Shigaraki:20170210201045j:plain

言わば、二段目の四つの箱がアルゴリズムの設計に当たり、その上下でアルゴリズムを実世界と対応づける。そこで次のように考えると、前回の帰納と演繹の図式との関連づけが見える。

 

f:id:Y_Shigaraki:20170210201028j:plain

ここで法則の箱の中の前半、要件定義と外部設計の組み合わせと、後半、内部設計とコーディング、試験の組み合わせとを比較すると、後半では、コードを実行する計算機環境に関する情報が追加される。

 

こうしてみると、ソフトウェア工学で言う、要求定義、外部設計、内部設計、コーディング及び試験というステップは、アルゴリズムの具体化に焦点を当てたソフトウェア制作工程の考え方ということが出来るだろう。

 

科学的研究の場では、有限的に計算可能な方法で法則が書けるとは限らないし、帰納/演繹のステップで機能・性能が既知のソフトウェアを使うこともある。また、抽出された要件の全てをコーディングに利用するとも限らない。

それどころか、帰納的な方法では仮説が一つの成果となることから、同じ対象(例えば日本音楽の音階)について複数個の仮説が出されることがある。ソフトウェアはそれぞれの仮説からある目的に沿って作られる事になる。

 

このように、ソフトウェア制作手順を要求抽出から始めて運用までをひとまとまりのものとして考えると、案外それは科学的(自然科学とは限らない)研究プロセスと似たものになっているようにみえる。

一つだけ留意すべき点があるとすれば、アルゴリズムを利用する条件設定のために、業務をある範囲で切り出す必要が出ることがある。この切り出しは、業務を定義する(define-境界線を設定する)ためには是非必要になることだが、要件を書きだすために使う用語の意味に次の影響を与える。その用語が境界線の内外を跨ぐ場合、アルゴリズムには境界線の内がわの意味だけが反映する。例えば「良い環境」のような抽象的な用語に特定の指数の組み合わせを対応づけた場合、「良い環境」とはその指数の組み合わせのことである、という意味づけになり、何故それでよいかはアルゴリズムの外側に置かれることになる。

研究活動の一部としてソフトウェアが作られる場合には、研究の用語で、誤解が起こらないように、明確に要件を書くことで、境界線を跨ぐ用語が起こす問題は避けられると思いたいのだが・・*2

 

それはともかくとして、こういう考えで、ソフトウェア制作手順を組み込んだ研究活動というものはどのようなものになるのだろうか・・

*1:それほど深刻でなければ要件定義まで戻ることはないかもしれない。

*2:現実には伝統邦楽と西洋音楽との間で、他の音楽に関する用語を引用すると、往々にして用語の意味が混乱するのだが。

人文科学のための情報科学

狸系の目

前回から今日までの間に引っ越ししていた。ひと月なんてあっという間に経つ・・

 

科学という言葉は自然科学の同義語みたいに感じるのだが、人文科学という言葉もあるから自然科学と同義語という訳ではないだろう。何かについて知ることには違いないにしても、知るために使う方法に何かの特徴があるのだろうか。物理学を例にとると、知る対象は自然現象であり、知る方法は次の図に拠る。

f:id:Y_Shigaraki:20170208202921j:plain

ここで上の図の意味する所は:

自然現象を観測して背後にある法則を帰納し、帰納された法則に基づいて現象を再現して法則の自然現象への適合性を確認する。この帰納と演繹のサイクルをとおして法則を洗練する。

 

自然科学の場合、対象は全ての人が住む宇宙であり、この対象を全ての人が同じ手段で観測する。単位と呼ばれる客観的な定義をもつ量を、観測精度を校正できる観測装置をつかって観測し、対象のモデルは単位付きの数値を使って表す。さらに、宇宙の寿命はとても長く100億年とも言われている位だから、せいぜい数万年程度しか経っていない人の経験する時間の流れの中では、宇宙が従う法則の変化が観測されることはない。

以上の特質から、自然科学では、全世界で有効な法則があると考えても問題になることはない。問題が起こる場合は、観測手段が格段に発展して、それまでの観測手段では見えなかった世界が見えてくるときに明確になる。例えば、古典力学と古典電磁気学とから与えられる水素原子は1秒ももたず消滅する。

これに対して音楽のように、地域毎・時代毎にそれぞれの環境に従って独自の発展をしてきた対象は、いくら音楽に国境なしと言っても、音という現象が同じ法則(音楽理論)に従う理由は全くない。同じ法則に従うことが発見されようものなら大発見ということになる。*1日本国内ではいくつもの流派がそれぞれの音楽を伝えているが、これらが同じ法則に従うことは期待できない。特に、明示時代に西洋から移入された音楽とそれ以前の伝統邦楽では。

 

音楽を伝えるには言葉に拠るが、困った事に、言葉は柔軟すぎるので、次の図のような意味づけで運用することができてしまう。

f:id:Y_Shigaraki:20170208202859j:plain

問題は言葉を使う人の側にあって、複数の文脈を切り替えて言葉を理解するには人に特有の負荷をかける。いちいち文脈を指定すれば、知らない文脈で話すことに警戒感を産むにしても、固有の文脈が違う人の間では会話が成立しない事になる*2

 

特定の文脈に属する言葉だけで音楽を記述することにすると、実に不自由な事が起こる。例えば日本音楽を記述するために、西洋音楽の文脈で自然な解釈ができるが日本音楽の文脈では規定内容が一致しない、五線譜が使えない。

 

おそらく他の文脈で使われる意味を引用したくなる事態は、無定義で使いたい常識語に理解を促すための説明を添える時に起こる。こういう場面では、特定の音楽のジャンルから独立な記録法で音楽を記録することが有効なのだろうと思うのだが、兼常清佐が言う「音声波形による音楽の記述」は、情報技術と組み合わせることで、有効な手段となるのではないか。

 

問題は、この音楽の記録法を使う人は誰でも、計算機のプログラミングができなければならない、ということだろう。その際、人文系の諸分野は、演繹より帰納が重要という特質が躓きのもとになるのではないか。

 

*1:文化的事象は多かれ少なかれ、地域と時代とが異なる環境で発展すれば独自性が育つはずであり、同じ法則に従うことはないのではないか。

*2:成立しているつもりで互いに勝手な解釈をしているだけ、ということになる。

科学と工学(新年の抱負)

狸系の目

あけましておめでとうございます。今年は酉年。ドライにならぬよう水を欠かさぬように努める酉年は・・酒年・・ そんなことはこっちに置いといて、と。抱負など。

 

 

筆者がかつて所属した学科には、情報科学科と情報工学科とがあった。学校にいたのはもう40年位も前になり、情報系の学科は立ち上がる時期に当たるので、情報科学情報工学との境目はそれほど厳密なものがあるとも思えなかった。

 

言葉の意味にうるさい立場にたつなら、科学は対象について知ることを目的とし、工学は技術の創造を目的とする。情報との関係について言えば、情報と工学との関係は見易い。ある課題を解決するための仕組みを情報処理に基づいて具体化する、というイメージ。それに対して情報と科学との関わりあいは、いくつかの可能性がある分よく見えない部分がある。

 

一つの案は、対象として情報自身をとることである。この方向には、シャノン流の情報理論、計算機に繋がる計算論、及びこれらの理論の応用がある。これに対して筆者は次の関わりあいを考えている。

音楽の世界に伶楽という活動があり、遺品として残された楽器資料から楽器本体を復元する成果が得られている。この活動を、形のない音楽理論にまで敷衍して、音楽(実世界の実体に対応)を仮想的にかつ忠実に再現することにより、仮想的な再現をとおして実世界の実体を理解する、という方向を考えている。

 

観察する音楽の全体を対象に選ぶと、処理の対象となるデータは音ばかりとは限らないことになる。結果として、情報技術を単品でなく体系的に使うことになる。関連する機能の例には次がある。音の物理特性が判ると、物理的特性を更に分析して、音階などの音楽用語が意味する音の特徴を詳しく調べ、パターン化する。パターンによく適合する楽譜を作成する、そのためには電子楽譜を構成する要素をリソースとして作成する。音から楽譜を作成する過程を逆に進めて、楽譜から演奏する。音から楽譜を作成する過程で使う様々な機能、例えば標準音源、音の物理特性のグラフ化などの機能。

 

情報技術の体系を実装し、維持管理するためには、最終的なコードだけでなく、ある技術をどのような要件に基づいて実装したかという、要件を明記して残すことが重要になる。音楽を対象とするなら、要件を知ることは音楽そのものを知ることに等しい。そこで、本研究の活動は、民族音楽学の活動と類似したものになってくる。但し、対象は民謡に限定されず、上代歌謡の記録と口伝との対応関係なども対象としてよい事になる。

 

さて、夢物語とは言え、ここまで明確化してみると、今年からは具体化のフェーズに入りたいと思うのだが・・

術語の薦め

狸系の目

言葉を不用意に使うと伝わる話も伝わらないと思うことがある。

例えば「クラシック音楽」という言葉は次のような意味1-3で使われている。

1) 狭い意味ではクラシックという言葉は1750年から1820年までの期間(クラシック期)を指し、この時期に作られた西欧の音楽に見られる特性を指す。

2) もう少し広い意味では、クラシック期から今日に至るまでの期間に作られた西欧の音楽を指す。小中高校の音楽の教科書で紹介されている西洋音楽史は大体後者の線に沿っている。

だからという訳でもないだろうけれど、信楽さんには、普段「クラシック音楽」という言葉を使う時には、次の意味で使われているような気がしてならない。

3) 「小中高校の音楽の教科書に収録されている作曲家が作った西洋音楽。」

この三つの意味づけには次の違いがあり、結構大きいのではないかと思っている。

 

クラシック期という時期は、バロック期とロマン期との間に位置する。バロック期は複数のメロディを同時に組み合わせて展開される音楽が作られていたが、この作曲法の表現力が使い尽くされてくると、音楽を作り続けるにはどの方向に進むべきかという深刻な問題が起こる。この時に、ある音と、その長三度上の音と、ある音の完全五度上の音とを組み合わせる*1ことでよく調和した響きが得られることが発見されて、メロディを組み合わせるのではなく、よく調和した響きが得られる音の組み合わせを芯にして曲を作る方向が確立する。クラシック期はこの時期に当たる。

この、よく調和した響きを与える音の組み合わせによる作曲法は、現在では和声法として、常識にもなっているが、クラシック期には混乱もあったらしい。モーツアルトに音楽の冗談という曲がある*2が、稚拙な和声法で書かれた曲を揶揄したとも言われている。現在言われているクラシック音楽は、和声法による曲作りのお手本となって、作曲法の進む先を示した曲という評価があって、教科書にも載せられている。

 

二番目の意味では期間がクラシック期から現代まで広がっている。ここは、和声法による作曲に繋がる期間という意味に理解したい。和声法が始まった古典期のもつ意義は忘れないようにするとして。

 

三番目の意味では「教科書に載っている」という、西洋音楽とは係わりのない、日本語特有の意味づけというか語感に注意が要る。つまり、「教科書に載っている音楽」という言葉は、「(この日本には代々継承されてきた日本の音楽があるのに、それを押しのけて)教科書に載った音楽」と理解されることがある。

明治時代に学校制度が始まった時に、音楽として洋楽を教えるか伝統的な邦楽を教えるかという議論があり、邦楽を教える教科書と洋楽を教える教科書とを作り、検討した結果、洋楽を教える教科書が選ばれている。この辺りが背景にあるので、「教科書に載っている洋楽」に関する反感も根拠がない訳ではない。実際、西洋の音楽と日本の音楽とでは、音楽の捉え方、継承の仕方など、基本がかなり違うこともあり、日本の音楽の考え方をベースに西洋の音楽を理解するのはなかなか難しいものがある・・にも拘らず、日本の音楽を語るために西洋の楽典から選んだ言葉*3を使うことになる。

 

ここでようやく、術語の薦めという表題に繋がる・・

 

術語はある領域で、その領域に現れる内容を明確に伝えるために使われる。領域限定で意味づけられるので、領域外で術語を使うと意味がよく伝わらない*4。これは、術語のせいではなく、伝えようとする内容が領域特定であることによる。術語のもつ意味を領域外に伝えようとすれば、術語をそのまま使うのではなく、術語のもつ内容を伝える言葉を作らなければならない。

音楽は長い歴史がある分、地域・時代毎に選ばれた約束事がいろいろと絡み合ってくる。例えば、西洋音楽の音階は決まった高さをもつ音から構成されている。他方で日本の歌の音階は、一つ一つに決まった節回しがあり、一つの高さだけでは指示しきれない。この性質からか、日本の音階は5個の音で構成されていると言われているが、上代歌謡の説明書を見ると、5個の音に補助的な4個の音を加えて9個の音の作り方が載っている。

このような、音楽に特有の約束事がある事を考えると、音楽用語は音楽汎用の意味をもつのではなく、特定の音楽毎に特有の意味がある術語として扱うのがよいのではないかと思う。日本音楽には日本音楽のための術語があってよく、加えて、日本音楽の外の世界にその術語の内容を伝える場合のために、その術語の内容を伝える言葉があるとよい。

*1:例えばド-ミ-ソの組み合わせ。

*2:ケッヘル番号K.522

*3:兼常清佐に拠れば、日本の歌を記録するためには五線譜は適当でないという。

*4:昔々、建築関係の方から、「情報系の分野では何故、分岐構造を指して木構造と言うのか」と聞かれて往生したことがある。情報系の分野ではデータが分岐構造に従って繋がっているデータ構造を木構造という。他方建築の分野では、建物の骨格を構造と言い、木質の素材で作られた構造を木構造と言うのだとか。

曲の呼び方

狸系の目

信楽さんは見境なく音楽を聞くので、意外な曲を話題に持ち出したりする。まぁ、狸の縁で「証城寺の狸囃子、野口雨情作詞 、中山晋平作曲」ならまだ想定内として、「西野カナのトリセツ」とか「福山雅治の桜坂」を面白がっていると、それを見て意外に思う人が出てくる。信楽さんの聞き方はFM放送の聞きながしなので、その中で記憶に残ったもの、という基準で選ぶと何が残るかなんて残ってみなければ判らない・・

 

ところで上に書いた与太話に出てくる曲には、曲名、作曲者と曲名とを合わせているものと、演者と曲名とを合わせているものとがある。思いつくまま並べてみると、ある規則性が見えてくる。この規則の由来を掘り起こしてみると、山の芋のように深い地下茎が出てきたりする。

 

まず曲の呼び方を、作曲者と合わせるタイプと演者と合わせるタイプとに分けて、思いつくまま曲名を並べてみる。

作曲者と合わせるタイプ

・花の街、江間章子作詞、団伊久磨作曲

平城山、北見志保子作詞、平井康三郎作曲

・J. S.バッハ、フーガの技法

・L.v.ベートーヴェン、第九交響曲

・F.リスト、調性のないバラード

など。上のリストはほんの思いつきで書いたので数が出ている訳ではないが、思い出してみるにつけても、作曲者と曲名とを合わせて呼ぶタイプの呼び名は*1西欧の音楽に圧倒的に多い。

西欧由来の音楽は殆ど、作曲者の曲名という組み合わせで呼ぶ。これに対して演者と組み合わせるタイプは、身近な所に例がある。

演者と合わせるタイプ

音楽を聞く機会は、放送の他にも、町内を回ってくる販売車から聞こえたり、マーケットから聞こえたり、いろいろあるが、こういう場面で聞こえてくる音楽は殆ど演者と曲名とを合わせて呼ぶタイプなのではないか。因みに信楽さんの巣穴のある地区を回る灯油販売車は、美空ひばりのりんご追分で広報をしている。

 

作曲者と曲名とを合わせて呼ぶタイプの曲は、演奏者を特定することがない。フーガの技法を演奏する演奏者は、音がずいぶん違うけれど、H.ヴァルヒャでも、G.グールドでも、不可ということはない。聞き手はそれぞれのバッハ像を聞くことになる。作曲者を合わせて呼ぶだけに、曲名を知らなくとも作曲者はおよそ想像ができるので*2演奏家は音の仕上がりの所で勝負をすることになる。ともかく、こういうタイプの曲では音を聞くので、極端なことを言えば、公演の舞台が見えなくともよい*3

 

演者と曲名とを合わせて呼ぶタイプの曲は、聞き手は実は音を聞いていなくともよい。このタイプの曲では音は上演の一部であり、聞き手はその舞台と場合によっては参加者全体の中にいて、会場の雰囲気を体験する。この聞き方をする人には、そこにいる演者を含む公演はかけがえのない対象であり、取り替えがきかない。たとえ音だけを聞くなら声に突っ込みようが様々あっても、舞台の雰囲気がかけがえなければ、代役を立てる訳には行かない*4。この辺り、作曲者と合わせて呼ぶタイプの曲が演奏者を選ばないのと好対照をなす。

 

この、曲の聞き方の違いは、聞き手にとっては常識として身についているとしても、普段からの聞き手でない人にとっては当惑のもとになる。大本の所にある理由は、音楽はそれぞれの文化圏で長い時間をかけて育ってきて今の形になっているので、その過程で採られた様々な選択の結果が集積して、ある人にとっての常識の中身が別な人にとっては思いもよらないものになっている、ということがある。例えば、ある曲がどの程度知られているかを測る尺度として、TVの放送などでは何の疑問も持たずにある期間のCDの売り上げを持ち出すのだけれど、これは明らかに、演者と曲名を合わせて呼ぶタイプの曲のための尺度であり、作曲者と曲名とを合わせて呼ぶタイプの曲にとっては尺度として使いにくい。演奏者を選ばない以上集計が難しい。

 

 あんなこんなで、音に拠る表現行為というレベルでは同じだろうというスタンスで音楽の話を気楽に始めると、相手によっては一言ひとことで言葉の定義がすれ違い、話せば話すほど話が混乱する事になる*5。この種のすれ違い解消には、まずそれぞれの立ち位置をきっちりと把握し、その把握が済んだ段階で比較に進むのがよいのではないかと思う。と言って、日本の音楽を題材にしてこれを厳密にやろうとすると、音程の約束が違うという理由で五線譜が使えなくなったり、芸能を継承する人間関係の仕組みを書きだしたり、この辺りまでならまだしも、口伝で継承される内容を記録し、分析し、整理する*6という大変な話になってくる。

 

曲の呼び方という何気ない素材にも、注意深く掘り起こすと、深い根がついてくる。

*1:日本の歌曲の中にも例があるにしても

*2:リストの音楽はリストらしい音で聞こえるし、ブラームスの音楽はブラームスらしい音で聞こえる。

*3:もちろん演奏者の演奏を妨害したら論外ではあるが。

*4:制度的にも、歌は特定の歌い手の持ち歌になっている。ごく稀に、事故で、二人目の歌い手が立つことがあるにしても。

*5:日本音楽の関係者と西洋音楽の関係者が音楽について語り合うと、芸能と芸術の狭間で会話が迷子になる。。

*6:つまり、日本の歌は本当に五音音階に従っているかを信号レベルから確認するということ。

指揮者と指揮という言葉のもつニュアンス

狸系の目

もう訳語として定着してしまっている言葉について何かを語るのも今更だけど、指揮という言葉のニュアンスと、指揮者という言葉のニュアンスとは合っているだろうか?

Wikipediaで指揮という言葉を検索すると、曖昧さ回避の頁に進む。ここには次の三つの言葉が列挙してある。

>> 

1) 人間の集団を指図し動かすこと。

2) 音楽の演奏に指示を出すこと。

3) 裁判における裁判官のもつ指揮権。

<< 

共通して強制力を持つ指示というニュアンスが感じられる。指揮者と言うと、立ち位置が目立つこともあり、何か、指揮棒を振る役割の職業みたいに見えてしまうらしい。そんな見え方が当然のように思えてしまう理由の一つに、日本語の「指揮」という言葉がもつニュアンスが影響しているのかもしれない。

この、指揮棒を振る役割の職業という認識は、放送大学印刷教材「日本音楽の基礎概念=日本音楽の何故=」ISBN:4595571585のような出版物にも現れることがある。6-日本音楽には何故指揮者がいないのかという節があって、本文を読む限り、指揮者の役割はタクトを振ることしか見ていない。

 

高校の合唱部やブラスバンド部に密着取材したバラエティ番組で、時々、コンテストまでの練習風景が放送されることがある。この時に、その部活動における指揮者の役割を垣間見ることが出来る。指揮者は練習を通して、演奏する部員の演奏を細かくチェックし、演奏法について様々な指導を行い、結果として音がよりよく完成されるように全員を導く仕事をしている。その練習の成果を公演する舞台では、指揮者は演奏する部員一人一人を見て、細かい指示を与えている。

指揮棒を振ることという把握では、この辺りの雰囲気が全く伝わってこないし、指導を軍隊の意味での指揮と思ったら現実とはかけ離れた連想をすることになる。また、部員一人一人への指導は、音楽の演奏に指示を出すことに違いはないのだが、それは強制ではなく、同じ目的に向かっていることを合意した上での指導であると言える。

 

この辺りまで考えると、日本音楽の基礎概念では触れられていない意味で、日本音楽に指揮者が立つことができない理由が見えてくる。

 

日本音楽でも、演奏法に関する指導を受ける機会はあるはずであり、ある意味、指揮者の役割に近い職能もあると思われる。といっても、合奏当日には指揮者が立つ立ち位置がない。

日本音楽では、楽器毎に、音楽を継承する家系が決まっている。普段の練習はその家系の中で音楽の継承を目的として充分に行われており、合奏する時には演奏家はその家系を背負って演奏する。普段の演奏について指導する人は家系の中にいて演奏には出ない。

合奏する時には、家系を背負って参加する演奏者に注意することは、家系の伝承について部外者が注意することになってしまう。

 

それは余談として・・

 

Wikipediaの曖昧性回避に相当する仕組みは英語ではどうなっているかというと、言葉を分けている。和英辞典(学研パーソナル和英辞典)によれば、軍隊などに対する指揮はcommand、楽団などの指揮はconductを使う。それではこのcommandとconductとの違いを見る。学研パーソナル英和辞典でcommandとconductを牽くと、次の訳語が出ている。

  1. a) command 命じる、命令する。支配する、指揮する。見渡す。自由に使える。(尊敬などに)値する。
  2. b) conduct 導く、案内する。経営する、(業務などを)行う。指揮する。理 伝導する。

conductの訳語、「導く、案内する」は、ツアー コンダクターという日本語にもなっている。英語で指揮者はconductorを使うので、この言葉なら、練習風景の雰囲気も伝わってくる。

 

こういう事情を見ると、オンライン辞書翻訳語を検索して、指揮はcommandと出たからといって、確認なしに、音楽の文脈に軍隊の指揮を使うことは避けたい。こういう話は慣れれば回避できる。難しいのは指揮棒を振ることが指揮者の役割と見るような、浅い観察が固定した常識について、いつでも、その常識にはまだ先がある、ということを意識しておくことだろう。

前進ある蚤もほどほどに

情報民族音楽学

ここ数日、これまでの説明のやりかたが基本的に間違っていたことに気付いた。

情報民族音楽学という言葉を何の断りもないまま使えば、「情報」、「民族音楽学」という言葉は、当然、一般的な意味で理解される。もし特殊な意味づけがあるなら、その意味づけを説明するところから始めなければ話が伝わらない。この辺り、イメージ的には気がついていても、言葉でどう表現すればいいのか判らなかったので、無定義なままでここまで引っ張ってきたのだった。

何かうまく言えていないから説明の事例を作ろうとして音楽の領域で前進を続けても、それを何故扱うか、という設問に答えるには結局最初に戻ることになる。ここで定義のない、定義を常識に任せている語句の定義を巡って説明不足が起こると、言葉を使って説明を続けることができなくなる。民族音楽学の名の下で何を明らかにし、そのために情報(技術)がどう使われて、結果がどこに使われるのか、というお決まりの問いかけに関連して。

 

信楽さんが気にしている問題は、音楽を説明する言葉が往々にして引き起こす行き違いをどう解決できるか、という内容をもっている。音楽では、音と映像とを使って何かの表現が行われる。音と映像とを認知することは国境なしにできるが、表現されていることを認識するにはその音楽の約束事に通じている必要があることから、国境との関わり合いが起こる。この認知と認識とは不可分な関係を以て個人の内部で行われることから、聞くだけで終わるならともかく、内容について語る場合にはその言葉がその個人のもつ知見に基づいて選ばれることになる。結果として、まったく同じ音楽を聞いて、その音楽について語る時であっても、言葉がもつ内容が話し手と聞き手の間で全くすれ違うことが(頻繁に)起こる。

例えば音楽は作曲家の創作物という常識と、音楽は演奏家の公演という常識とがあるとする。「時代に大きな影響を与えた名曲」という言葉を前者の常識で受け止めれば「同時代から以後の作曲家の創作に多大な影響を遺した作品」という理解が生まれ、後者の常識で受け止めれば「その時代に飛びぬけて多くの聴衆にアピールした演奏者の曲」という理解が生まれる。CDの売り上げは後者の意味で影響を測る尺度にはなっても、前者の意味では影響を測る尺度にはならない。

 

信楽さんの思う所音楽を伝える言葉の難しさは、その約束事を伝える言葉が音楽それ自身から切り離しにくく、約束事が異なる音楽を比較するには仲介する言葉が要るのにそれがない、という点にある。情報技術はある意味で、新しい言葉を作る活動をしてきた。ここでもこの活動をうまく具体化できないものだろうか。

こういう思いを裏にもつ情報民族音楽学なのだが、この内容を伝えるには、前進ある蚤をいったん止めて、この目的意識を再確認することが必要なのだろう。