読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

FM‐現代の音楽

FM放送、現代の音楽で、湯浅譲二さんの作品を特集していた。1960年から1970年代にかけては現代音楽が普通に放送されていて、音楽芸術誌と合わせてよく見聞きしていたので、久しぶりに、という気分で聞くことにする。

 

放送は5月17日午前、放送されていたのは次の4曲。

1) 「プロジェクション・エセムプラスティック」

2) 「2本のフルートのための“相即相入”」

3) 「弦楽三重奏のためのプロジェクション」

4) 「混声のためのプロジェクション」

放送で湯浅さんが言われていた言葉のうち、次が記憶に残っている。

  1. a) 日本と西洋(西洋由来の現代音楽の日本におけるありかた)
  2. b) まだ聴経験にない音楽(視覚でいう「既視感 déjà vu」の逆)

放送されていた曲は、こういう感じに聞こえる。

第一曲は、ホワイトノイズをフィルタに通した音を素材にして、これを録音したテープの再生速度を変えながら作られている。出だしは川の流れに鳥の鳴き声が聞こえるようにも聞くことができる。

第二曲は、振り子が刻む時間の流れとは違う時間の流れを基に演奏する。二つの曲からできていて、楽譜を見ると、次のように指定がある。最初の曲にはそれぞれのフルートの譜に速度(♪=xxという指定の意味で)の変え方を示すグラフが付いている。二曲目の譜にはグラフのような目立った指定はないが、曲の進み方が奏者の息の長さで決まる。二曲目は尺八の掛け合いのようにも聞こえる。

第三曲は、電子的な変調などはない、実演による弦楽三重奏。この編成で、まだ聴経験にない曲を実現する試み。ごく一瞬の区間は案外普通の*1響きもある。

第四曲は、一つ一つの母音でなく、母音の繋がりを素材に使って作られた声の曲。母音の繋がり部分は普通に発声すると一瞬に通過してしまうはずだけれど、これを延ばす特殊な発声をしていたかは不明。クラスター+ボカリーズのようにも聞こえる。母音の連鎖が動物の鳴き声のようにも聞こえた。

湯浅さんの作品と言うとこれ以外にも、ホワイトノイズによるイコン、プロジェクション花鳥風月ほか多数あり、上の四曲は放送のために選んでいる。記憶によると、イコンでは、透明な大きな風船を曲に同期させて動かしていた筈で*2、こういう視覚効果と組になった音楽はラジオ向きではない。

 

放送を聞いた経験位で感想を言うのも気が引けるけれど*3信楽さん、現代音楽についてこんな印象をもっている:

**ここから**

音を聞くと響きは似ているのに、曲が表す内容とか曲を作った意図についての話が、作曲技術上の違いに偏っていて、作曲技術上の違いが音の違いとしては判らなくなっている。

調性というと音楽の作り方と深く関わりあっていて、曲を作る単位となる二つの主題に性格を与え、曲の進行上現れる各場面‐初見(提示部)、展開、再提示、締めくくり‐を飽きさせず、取り留めの無いものにしないだけの統一感を維持するための仕掛けとして調性を使う。ということから、調性から音楽を解放しようと思えば曲の変化と統一を達成するためにこれまで調性が負って来た役割をどうするか、ここに焦点があたる。新しい基準を入れるためには、その基準が表現上のどういう理由で選ばれるかを理解したくなる。

調性からの解放という言葉は、リスト・ワグナーあたりから始まってシェーンベルクウェーベルンにつながり、今に至るまで使われている。このうちリスト・ワグナーあたりからシェーンベルクまでは、調性からの解放を試みる理由を音楽から聞くことができる。

ワグナー「巡礼の合唱」の場合、罪の許しを請うために巡礼する行列の場面で、不安な心境を表現する。

リスト「灰色の雲」、「不幸の星」の場合、葛藤と救いとを対比させて描く。

シェーンベルクの12音音楽の場合、調性と深く関わっている音楽構成法を、調性によらずに継承する。

ウェーベルン以降、音楽が作曲家の外でできるという傾向が出てきた。(数列がすべてを決める、確率が示す音を選ぶ・・・)それでもウェーベルンの曲は、演奏され、表現のコツが理解されたせいか、よく演奏されるようになっているが、ウェーベル以降の曲は、音が似すぎていて、音から作曲者がわかりにくい。

**ここまで**

 

放送を聴いて記憶に残っている言葉に『まだ聴経験にない音楽(視覚でいう「既視感 déjà vu」の逆)を狙う』がある。プロジェクションという言葉は、現実からの飛躍的変化、という意図があるらしい。西洋からの現代音楽を日本でどう具体化するか、という意識も、『まだ聴経験にない音楽』(ne vu pas?)の手段として意識されているらしい。

 

ところで、「~でない」という言葉には落とし穴がある。

 

「~でない」を、ある命題の否定命題と考えてみる。命題Pが指すもの全体を、指されるものを要素にもつ集合とS考えて、S={x|P(x)}と書く。この否定命題¬P(x)が何を指すかというと、「全ての集合を要素とする集まりからSだけを除外した集まりの要素」となり、実感がわかないほど巨大化する。*4余りに巨大なので、普通は、全ての集合を要素とするクラスの代りに基礎を作るある集合Uを仮定する。

「~でない」ものが唯一無二であると保障されていればそれでも問題が起こらないのだけれど、実際には作曲技法の数だけある。こういう場合、「~でない」あるものXから「~である」あるものに架け橋が架かっていると、「~である」世界から「~でない」あるものを見る見方、複数あれば相互関係が見える。しかしえてして飛躍して先端にいる人は、「この先にはまだすばらしいものがある」という説明をする*5

 

「~でない」あるものが複数あって、それぞれが「先端から先」を言い始めたら収拾がつかない。現代音楽を支える層が増えないまま収束してしまった背景にはこんな事情もあったのではないか。

日本的なものを扱うにしても、日本的なものがそうなっている理由まで踏み込んでいれば、お互いにとって発見があったのではないかとも思う。伝統邦楽は声の表現からスタートしている。そのせいから、時間の進み方が演奏者に依存し、音程が微妙に変化する。声の表現に由来するところを見ずに、時間の進み方、音程の重ね方のところだけを取り入れても、「今までにない効果」は得られても、聞く人が聞き分けられるかがよく分からない。

 

こういう曲を聴くのは40年ぶりくらいなので、再演の機会が増えることを期待しつつ、いろいろ思い巡らしてしまった。

 

追記

プロジェクションでなくプロジェクトだったら、そこに至るまでに辿った道筋が残っていたかもしれない。

*1:コダイの無伴奏チェロソナタを連想した。

*2:音楽芸術誌のいつかの号に写真が載っていた。

*3:聞き洩らさないように放送を追ってはいた。また、音楽芸術誌を一時期読んではいた。

*4:ここで言う「集まり」は、正式にはクラスと呼ばれる。

*5:自負心もあるかもしれない。