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狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

FM-現代の音楽

5月最後の日の現代の音楽は、黛敏郎氏の作品を特集していた。曲目は次のとおり。

1) 「新幹線の車内メロディ」

2) 「プリペアド・ピアノと弦楽のための小品」

3) 「オリンピック・カンパノロジー」

4) 「オーケストラのための“呪”」

5) 「BUNRAKU」

今日は少しの待ち時間HAIKUを読んで、と思っていたのが失敗で、最初の2曲は聞き落としてしまい、三番目の途中から聞くことになってしまった。そんなこともあって、今日の記録はやや散漫・・

 

カンパノロジーという表題は涅槃交響曲*1でも使われている。寺院の梵鐘の音を取り入れた音楽であり、涅槃交響曲では梵鐘の音のスペクトル解析の結果から作った和音に基づいて曲ができている。オリンピック・カンパノロジーは録音した梵鐘の音が素材になっている。

“呪”という言葉は仏教用語であり、サンスクリット語の経文を訳さずサンスクリット語の音で読むものを指す。音楽として聞くと、シェーンベルクの五つのオーケストラ小曲集の第三曲「色彩」の直系の子孫のような印象をうける。

BUNRAKUは漢字で書けば文楽となるが、チェロのピチカートが文楽の太棹三味線のように響く。

 

前回・前前回の湯浅譲二氏の作品を特集したときにも出た論点ではあるが、1970年頃よく上がっていた話題に、西欧様式で作曲する日本人作曲家にとっての伝統邦楽がある。伝統と現代という話題は、1970年頃に一回、しばらく後にもう一回、ピークがあったように覚えているが、はっきりとした結論があったようには覚えていない。

 

音楽には、音という物理現象、音楽表現という内容、演奏行為という人の営みが関係してくるので、よほど言葉に注意して議論するか、常識が整ってあとは言葉を選ぶだけの状況になっているかしないと、話が混線する。例えば、音楽という言葉一つとっても、次の違いがある。

・西欧では、一つの曲は作曲者の創作品。

・伝統邦楽では作曲と演奏とを一つの芸能として、芸能の継承者が扱う。

伝統邦楽には共通の音楽理論や記譜法というものがない。雅楽のように合奏形式の音楽でも、総譜はなく、楽器毎のパート譜が固有の記譜法で作られている。

そうすると、伝統と現代という標語は一体何を意味するのだろうか?

西欧の作曲家には、作曲技法の行き詰まり*2という問題意識があって、伝統邦楽の音に注意が向く。他方、伝統邦楽の世界で、もし芸能の継承に問題を感じていないならば、他所*3から何かを取り入れる動機は起こらないだろう。

 

しかし一遍に複雑なものを考えたらもつれるだけなので、情報民族音楽学という看板の下では、物理現象としての音、音楽表現という内容(を表すはずの楽譜)からいろいろと調べて行こうとおもっている。それまでの観測データの蓄積があった自然科学ならともかく、音楽の特徴などと言ったら観測法から組み立てなければならない。

*1:1,3,5楽章

*2:よほどのセンスと技量とがなければオリジナルな曲が書けない。そのくらいたくさんの曲が書かれてしまった。

*3:伝統邦楽の他流派を含む余所。