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狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

FM-現代の音楽

現代の音楽では、5月、6月と、20世紀後半に作曲されたいわゆる現代音楽を取り上げて放送している。今回と次回はI.クセナキスの作品を取り上げる予定。今回は次の4曲を放送していた。

第一曲 「メタスタシス」

第二曲 「ピソプラクタ」

第三曲 「アホリプシス」

第四曲 「ヘルマ」

クセナキス第二次世界大戦の終盤から戦後の混乱期にかけて学生時代を過ごしている。建築学と数学とを修め、音楽に進む。はじめはオネガーに師事したのだが意見が合わず失意に陥る。その後メシアンから、建築学・数学を応用した音楽という方向性を示唆されて、方向性を確立した。変わった経歴ともとれるが、当時の所謂前衛音楽の分野にはこうした、音楽以外の分野から音楽に進んだ人が普通にいたようだ。*1

第一曲から第四曲までは次のような特徴がある。

第一曲 グラフ用紙を使って作曲した曲。縦軸が高さ、横軸が時間。曲線で音を表す。

第二曲と第三曲は確率音楽。具体的に何かは、楽譜を見たことがないのでよく判らない。

第四曲 88鍵を全体集合とし、部分集合をいろいろな方法で選ぶ、という曲。

 

放送を聞きながら、以前から思っていた「新しい響きを経験する意味」についてこんな事を考えていた。

新しい響き、という時の新しさは、その音楽の音楽史を前提にした新しさであり、違う地域には同じような響きが既にあることもある。

ジャワ島に伝わるガムランをはじめて聞いた時に、金属製の打楽器が電子音のように聞こえたことがある。また、手持ちのCD「涅槃交響曲」に入っている『奈良法相宗薬師寺聲明「薬師悔過」1.散華』では、声明を唱えながら移動する僧侶の声と履物が床に当たって鳴る音とが録音されているが、この履物の音が木製の打楽器をランダムに打ち鳴らすようにも聞こえる。

厳しい言い方をすれば、ある流れの先という見方で新しい響きを考え抜いた結果が、別の流れの中では既にあることだってある。そうすると、新しい響き、という言葉にはどういう意味があるのだろうか。

個人的には、第二次大戦が記憶に残した影が前提としてあって、その記憶から脱出すること、と想像してはいる。ただ、新しい響きを使ってどこに行きたかったのか(英語の構文に喩えると、”Not A, But B”のBの部分は、という疑問。*2)?

セリー音楽がどこまでも決定性の作りになっていて、この決定性の作りを確率的作りに変えたとしても、平均律と既存の楽器との組合せで出来ている音は、どこかウェーベルンの曲の一部と聞こえてしまい、新しさの意図が聞きとれない。このあたりは響きではなく表現意図の話なのだろうけれど。

 

以下、個人的な願望。

トータルセリエール音楽以降の音楽に関連して「作曲家(と演奏家)の感性から独立した存在としての音楽」という言葉を聞くことがある。極端な話、演奏会場の場で聞こえる音すら音楽というような。この逆を考えると「作曲家(と演奏家)の感性以外のなにものもない存在としての音楽」という言葉を思いつく。後者の言葉に合う実体を考えると、ロックな音楽なんかが該当しそう。ただどちらに進むにしろ、音楽が何かを表現し伝えるなら、聞き手が入る余地がないと聞き手が困る。自然の音を音楽とするなら、例えば松林を通り抜ける音(松籟)を実際に聞く経験を、伝説のパフォーマーの曲を聴く際にはその伝説に対する共感を。これがないと、響きだけでは聞き手は取り付く島もない感じを受ける。

 

1970年頃の現代音楽には、何かから抜けることがテーマになっていて、どこに向かってが欠けていたようにも思う。このあたりが、現代音楽の熱が冷める原因になっていたのではないか。これに対して芸能の場合には演者が見えるから、「作曲家(と演奏家)の感性以外のなにものもない存在としての音楽」との相性はよい。だからという訳ではないと思うけれど、最近は、特に放送網に乗る音楽は、芸能系ばかり(但し一部)になっている。もっとも音楽には、個人が演奏するという趣味的な場面もあるので、放送網に載らない部分まで含めた意味で音楽全体を考えた時に、音楽が(一部の)芸能一色とは考えたくない。何かこう、個人が様々な音楽に近づく手掛かりになるような切っ掛けが作れないものだろうか?

*1:注記 例えば柴田南雄氏(植物学)、湯浅譲二氏(医学)、入野義朗氏(経済学)。

*2:もちろんBは、Not A, But something like B(AでなくBのように。)のような掴みがたいものではなくて、約束事でもいいから聞きながら把握できるもの。