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狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

日本音楽と指揮者

狸系の目 読書

まず手始めに次を読んでいる。

竹内道敬著、日本音楽の基礎概念=日本音楽のなぜ=、放送大学印刷教材(1996年3月)

14の何故と回答に1つの纏めがついている。今日読み始めて現在、6節の「日本音楽にはなぜ指揮者がいないのか」まで来ている。この節(53頁から60頁)、音楽を比較することの難しさを良く示していて面白い。

 

この質問は詳しく見ると、「日本音楽にはなぜ西洋の音楽に見られる指揮者がいないのか」という内容になっていて、日本音楽と西洋音楽との比較を要請している。ところが回答は次のようになっている。

・日本の音楽には専属の指揮者はいないが、演目により音楽を統率する役目が決まっている。

・西洋で指揮者が現れるのは音楽辞典によれば19世紀からのことで、昔からという訳ではない。西洋でも、ブルガリアの合唱団、ジプシー音楽、ジャズのように指揮者を必要としない音楽がある。

・宗教音楽では調和が必要であったが、これは日本にはない。

以上は大体53頁あたりまでの要約であるが、西洋音楽の目で読むとこの回答は要するに「日本音楽の観点から見ると西洋音楽に見られる指揮者の存在する理由は理解できない」という内容であり、「なぜいないのか」という質問とずれが起こっているように見える。これは一つには、西洋音楽については実に表面的な考察しかできていないことによる。そこで、西洋の音楽について情報を補ってみる。

 

西洋音楽という言葉の内容を楽器から見てみる。西洋音楽の特徴に、かなり早くから鍵盤楽器が普及していたことがある。筆者が高校の選択科目で使っていた教科書*1の70頁に楽譜と楽器の発達という挿絵集があって、それによると、ピアノとオルガンに関して次の挿絵が収録されている。

・ピアノ: スピネット(13世紀頃)、クラビコード(17世紀頃)、ハープシコード(18世紀ころ)

・オルガン:風力オルガン(6~7世紀頃)、教会オルガン(16世紀頃、18世紀頃)

スピネットの挿絵には既に鍵盤が付いており、同時に複数個のキーを押して、複数個の音を演奏している挿絵が付いている。同時に演奏された複数個の音が美しく響くことは、鍵盤楽器の調律法に関連する重要な課題であり、ピタゴラス音階*2から始まる様々な試行の末、平均律に落ち着く。この試行は西欧で行われ、今は欧州で見られるにしても、ブルガリアの音楽、ジプシー音楽、ジャズ音楽はまた別な経過を辿っている。

19世紀というと、ハイドン(1732~1809)、ベートーヴェン(1770~1827)の次代となる。この時代は音楽の作り方が大きく変わったことで知られている。この前の時代には、複数個のメロディを同時に進めて音楽を作っていた*3ヘンデルハイドンモーツアルトの時代には、3個あるいは4個の音の組合せ(和音)を作り、調性を選んで音に曲に必要な表情を付けるという作り方が標準になった。これで演奏時間1時間を超す音楽でも作れることを、実際に曲を創作して示したのがベートーヴェンの仕事であり、和声法で安心して音楽が書けることが確かめられた。同時に、家庭にまで普及した鍵盤楽器のための音楽が求められ、そのためにも(対位法でなく)和声法による音楽が書かれるようになった。

 

以上駆け足で西洋音楽の特徴を見ると、次が見てとれる。19世紀の西欧の音楽では、オーケストラの楽器には、鍵盤楽器同様、同時に演奏される複数の音を美しく響かせることが要求されるようになる。

つまり、西洋(西欧)の音楽では、美しく響く和声を仕上げるための指導者として指揮者が存在する。ごく最近の習慣であり、西欧固有の習慣であっても、不要と言う論はない。指揮者と言うとオーケストラの前で指揮棒を振る姿しか見えないのだが、英語でdirectorというだけの、曲の仕上がりに関する責任を負っている。

日本の音楽で曲の進行を合わせるための指揮者が不要に見えるのは、日本の音楽は複数個のメロディあるいは楽器音を同時に響かせるという作りになっておらず、西欧の音楽の意味で音を合わせる必要がなかったから。

少なくとも、西欧の音楽の情報を補うとこういう結論を言わざるを得ない。しかし、日本音楽から見て身も蓋もない感じがする。何故こういうすれ違いが出てくるのだろうか。

 

一つには「音楽」という言葉には唯一の意味がありそれは「日本音楽」/「西欧音楽」である、という確信があって、これがすれ違いの基になっているように見える。この確信は日本語が冠詞をもたず、「ある音楽」と「音楽というもの」との区別に無頓着になっていることに由来するようにも見える。

それでも音楽の継承者が互いに領分を侵さないように住み分けていれば、それぞれの領分ではそれぞれの定義を使っていて特に問題は起こらないはずなのだが、現実には五線譜の普及という形で既に住み分けが壊れてきている。その結果、59頁あたりにあるように、日本の音楽が不必要に合いすぎるようになってきたという問題が起こってきている*4。6節ではこの問題を、要約すると「五線譜の普及で日本音楽の領分が侵された結果」という言い方をしている。この言い方は如何にも日本語的な感じがする。と同時に西洋音楽に対する言いがかりとも聞こえる。

 

必要な事は、大前提として音楽という言葉が複数の異なる定義をもつことを認め、自身の音楽の特質を互いに比較できる言葉できちんと押さえた上で、日本音楽に固有の表現を主張してゆくことであると思う。これは決して難しいことではなく、例えば次はどうだろうか。

「一つのメロディをあるばらつきを伴って演奏することで多数の声を意識させ、音に厚みと広がりとを与えることが、伝統的な声楽の表現なのだ。よって、単一のメロディに収斂して、一つの声にしてしまうことは、表現を損ねる。」

*1:高校生のための音楽、教育芸術社

*2:ある音から始めて5度上の音を取りながら作る音階。偶然の一致からか、伝統邦楽も同じ音の取り方をする。

*3:カノン、フーガ

*4:これは確かに問題ではある。