狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

追補案

ここ数年情報民族音楽学という言葉に見合った内容を付けようと思案してきた。一応、自分なりの到達点まで来たので、ノート(作成済み)と次の要約(これから清書)とをもってこの活動にも区切りを付けようとおもう。

 

1.はじめに

情報技術の民族音楽学への適用というアイデアを思いついてから半世紀近く経つ。退職を機にアイデアに形を与えようと、「情報民族音楽学」という用語を考え、然るべき定義を与えるべく書きものを作り、5回ほど改版*1をしてきた。定義*2ということで全体像を描いた結果、とても大がかりな準備が要る内容になってしまった。この書きものに書いた課題は同時に手掛けるというよりはゴールの描像であり、これから手掛ける項目はここから選ぶことになる。そこで、書きものの要約と、書ききれていない項目の追加とを行ったこの文書を作り、書きものと合わせて、情報民族音楽学の現段階での定義を確定することとした。

 

2.民族音楽学としての情報民族音楽学

情報民族音楽学の目的は、従来の民族音楽学同様、対象に選んだ音楽を知る事とする。基本とする手法は採譜とする。従来から言われる採譜は次の手順*3に拠る。

⓪ 全般的な心構え

歌詞、歌唱のムード、あるいは歌唱者の集団的・個人的習性によって、日本民謡は陽音階にあるいは陰音階に近づけてうたわれる。採集曲の多くは中間的・浮動的な音階でうたわれるものだということを心して作業を行うことが必要である。

① フィールドワーク資料の選択

選ぶ基準は録音の良し悪しより、歌唱の確実さとする。

② 音響資料の複写

フィールドワークで採録した音響資料を作業に使用する標準的な音響媒体に複写する。

③ 音階をつかむ

④ 旋律のアウトラインを書く

⑤ 歌詞と小節線とを記入する

⑥ 細部記入と推定

⑦ 仕上げ

⑧ 発表用の譜

利用者の再現の便を考慮して発表用の譜を別作する場合、旋律に手を加え過ぎて編曲になってしまわないようにする。伝承者とその生地・生年の表記を忘れないようにする。発表譜を別作した場合でも、原譜は保存しておくべきである。

⑨ 比較譜

同系異曲が集まったら、比較譜を作成すべきである。

以上

 

この手順では採譜の目的を、項番⑦、同⑧、同⑨の楽譜に置いている。採譜は音楽に関する資料を収集する一つの手順であることを考えると、採譜が作業の終わりではなくむしろ対象とする音楽の研究に関する始まりの位置にある。採譜結果は一つの資料であり、その音楽に関する研究が行われている期間を通して研究資料として参照される。

 

情報技術をこの採譜作業に適用する一つの方法は、上記の手順をそのまま計算機上に搭載して、デスクトップに作業環境を作ることである。目標は、楽譜の電子データ作成とする。この方法に拠る場合、作成した資料(楽譜)を更に計算機処理するためには次の課題を解決する必要が起こる。

作成した資料(楽譜)を更に計算機処理するためには、それが上記採譜作業の途中経過で作成されていても最終結果としては残らないという理由で、次に利用するツールが要求する入力データの要件を満たす形式に変換する作業が必要になる。この変換作業は、情報技術を導入したために発生する負荷となる。

民族音楽学に情報技術を導入するなら、研究活動を構成する一つの作業だけに導入するのではなく、研究活動全体を見て、必要となる技術を必要となるタイミングで導入するように考えたい*4民族音楽学の研究活動の全体を見た上で設計した採譜手順を情報学的採譜の手順と呼ぶとすると、ここでは、音声言語同様、音楽にも階層的な構造を認めて*5、次の特徴をもたせる。

情報学的採譜は譜の作成を最終的な成果とするのではなく、原資料及び各ステップで作成した資料の全てを成果として、これらを計算機可読な資料として維持するように構成することが望ましい。こうすることによって維持している資料は、資料間の突き合わせに情報技術を利用する際の資料として活用することが可能となる。

 

例えば伝統邦楽では、楽譜が伝承されている*6上代から継承されている楽譜は口伝の備忘録であり、音楽は口伝によって継承される。口伝と文献資料との比較は、伝承された音楽を採譜し、これを伝承されている文献に収録されている楽譜と比較により達成される。口伝と伝承された楽譜との間に乖離があり得る事に注意。実際、真言宗の声明譜には、古博士、仮譜、作博士などの記譜法が知られているが、これらは口伝と伝承された譜との乖離を解消するために、様々な口伝を記譜する目的で導入されている*7

 

3.知見というデータの蓄積と維持に対する考え方

音楽を知るために収集する知見は、記号を使って書かれ、データとして蓄積・維持される。この枠組みに情報技術を適用する際には、知見を収集する当初は、対象とする音楽について判っている事は皆無という前提で始まる。データが集まり、ある仮説とそれを支えるデータとの対応関係が明示されると、漸く仮説をどのような理由で信頼できるかが判る。特にその仮説を支える理由が充分に確実であると認められたものについては、仮説から定説に置き換わる。音楽に関する知見を収集する過程で、記号にこのような信頼性の裏付けを与えることができる仕組みが必要になる。

記号の意味を数学的構造の枠組みに基づいて維持することを考える*8。数学的構造は{宇宙、モデル、理論}の三つの項目からなる。この構造に従って、楽譜(記号)をモデル(の要素)に対応付け、音楽を概念と考えて宇宙(の要素)に対応づけると、このモデルと宇宙とは次の理由で素朴な意味での集合(以下ZFC集合)と相いれない。

ZFC集合の要素である集合Sは、このSが作られた時点で、Sのすべての要素を取り出す事ができる(集合論の公理を示す)。民族音楽学の知見は、その音楽について現在は知られていないある特性についての仮説を与える。楽譜として書かれる知見が正当な表現であるか、また音として得られる概念を対応づけられるかを判定できる数学的構造は、過去~未来に渡って対象となる音楽に関する全ての内容を収めているはずであるが、これは言い換えると、今対象としている音楽については既に全ての特性が知られていることになる

数学的構造で言う理論は形式化された公理及び形式化された推論規則から作られる。この形式化された推論規則として、LKと呼ばれる体系が使われるが、これは古典論理の酢依存規則を経由してZFC集合論に関係する。従って、LKを使う限りは理論もZFC集合論に関連づけられることになる。

結局、民族音楽学の知見が、対象とする音楽について判っている事は皆無という前提で始まり、資料が集まる毎に徐々に確実さが判るという性格をもつ限りは、少なくとも、ZFC集合論に基づく数学的構造(及びこれに等価な体系)を使って記号の意味を規定することは避けなければならない。専用ソフトウェアと組み合わせて要件に合うシステムを作るという案も考えられるが、その際にはシステムの寿命という課題が発生する。素朴な集合論以外にもいくつかの集合論*9が知られているので、知見の意味付けに関する上記の要請に合う数学的構造及び集合論を捜すという活動があってもよい。

 

4.資料を電子化する際の課題

4-1.資料の可読性の保証

保存性から見れば電子化資料より印刷資料が優れているが、資料間の対応関係を追加する、資料に基づき新しい資料を創作する(記譜法を改める、文字を変える・・・)などに使うための利便性からは電子化資料が優れている。

電子化資料は、ある仮説を支える資料とするために長期に渡って参照されることがある。伝統邦楽譜の中には奈良平安朝期から継承されている手書き文書がある。これは極端に長い例としても、資料として使うなら数年の寿命は短すぎる。電子資料を決済に使う事が認められて*10以降、10年単位で可読性を保証する技術が普及しているが、一人の研究者が一生に渡って(又は100年程度)意識したメンテナンスをせず利用し続ける事ができる電子文書を構成する技術は未成熟と言える。

文献資料を電子化する手法には、イメージデータとして電子化する方法と、構造化データとして電子化する方法とがある。イメージデータとして電子化するには、書かれている内容は拘束条件にならないが、書かれている内容の変更はほぼできない。構造化データとして電子化するには編集が容易ではあるが、文書記述言語に決定版が無い。適切な文書構造記述言語が目的に依存するものなら、文書記述言語自身も改良の対象となる。

関連して、採譜の基礎となる音データが、伴奏や環境音(風などの)の影響で混合音声になる事が避けられないなら、録音条件の良い資料より、良い歌唱を記録した音データを使うという指針を満たすためには、目的の音に焦点を当てて混合音声を分析する技術が必要になる。

4-2.資料の収集範囲について

伝統邦楽の音は仏教伝来当時の世界で行われていた様々な音楽の影響を受けて決まった可能性がある。(実際雅楽伝来当時には様々な外来音楽が伝わり、取捨選択の上、今の音楽が出来上がった。(月渓著、「日本音楽との出合い」)そうすると将来的には、複数言語圏から来る資料を扱えることが望ましい。

4-3.結果の利用法

情報民族音楽学の活動で作成される資料は、研究資料として利用する以外に、次の使い方が考えられる。次の活動が行われて、音楽の継承に役立てられたと言える。

口伝で伝えられているために流派以外には周知されていない内容を文書化して、周知する。

日本語、日本文化とも、文字、文書は覚書であり、内容は口伝で伝えるという特質が見られる。テキストが電子化されて世界中に配信されている時にはテキストと同時に口伝も伝えることが要請される。口伝の内容の内明記できるものは明記して、既存の文書資料に書かれていない、口伝でのみ伝わる内容を伝える努力はすべきと考える。西洋音楽でも五線譜に書かれる内容は演奏家の解釈を通して音になるものであり、演奏家の解釈には多分に口伝の要素がある*11。五線譜に関連する基礎的部分が文書化されており、この文書が初等・中等音楽の教育を通じて、音楽を継承する人的基礎を作る上で大きく役立っている。

*1:「情報民族音楽学ノート」という私的メモ

*2:Define:To set limits(Webster’s New World Thesaurus,Laird,1971 ), 境界を明確にする事

*3:情報民族音楽学ノート5頁~8頁、出典;大島治清、中曾根松衛編、日本民謡全集 第一巻総集編、雄山閣出版株式会社、昭和51年3月から要約。

*4:技術自体は当初から確定できるものではなく、成長するものとなると考えている。

*5:音声理解システムの構成法に関する資料を参照。

*6:情報民族音楽学ノート、附録1、附録2

*7:蒲生郷昭著、真言声明の譜、NHK交響楽団編、監修 小泉文夫、日本と世界の楽譜、楽譜の世界3、日本放送出版協会(昭和49年9月20日第一刷)、P92~

*8:モデル論的意味論の考え方に則って。

*9:直観主義集合論、Kripke-Platek集合論など。何かの応用には集合論のモデルを使う点に注意。

*10:e-文書法

*11:参考:演奏家向けワークショップの記録「日本放送協会日本放送出版協会編、NHKスーパーピアノレッスン フランス音楽の光彩、日本放送出版協会(© 2006、日本放送協会)、平成18年4月1日」