狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

信楽情報社会科学研究所

まだまだ、信楽さんの空中庭園の書。

昔々、信楽さんは、「情報社会科学」の研究所に所属していたことがあった。「情報社会科学」の研究、字義どおりなら、社会科学の事象情報科学の方法により明らかにする研究ということになる。

民族音楽学に音声情報処理技術を使ったら何ができるかを考えていた折の事だったので、ちょっと期待して赴任したのだったが、なにぶん昔々の事なので諸事制約がきつく、詳しい事は記憶に残っていない。そのうち退職の年になって、このままこの民族音楽学の話はしまいこむかどうするかを考えてみた。

この件、すべて自分の中に秘匿して来ていればしまいこんでもどうってこともないが、いろいろ未完成な状態で話してしまったことがある。現状は全くの架空庭園の話なので、理想を現実化する話の一般論から予想されるいろんなリスクが目の前に浮かぶ*1

隠し通せないならいっそ、還暦前の仕事はすっかりリセットして、民族音楽学情報科学からできる活動領域を、語義どおりの「情報社会科学」の枠組みの下で追いかけてみようか。

こんなことを企んでみた。

この企てを実行する仮想機関が名前だけはあって、表題の「信楽情報社会科学研究所」。

 

軽い気持ちで始めてみると、自分のもつ定義が確定するまでは相談しない*2という要件を自分自身に課すと、考えていたことの曖昧さが身にしみて判る(^o^;)。要領の問題かもしれないけれど、全体80頁位の書きものを今までに5回改訂した (- -;)。

 

印刷物を読み返してみると、どうも最初の頃は、どんな音楽の楽譜が来ても自動演奏できるシステムを目標にしていたらしい。ピアノロールというのは幅広な紙テープで、これに往年のピアニストの演奏を記録した資料が残っている。この発想を様々な音楽に拡張して、音楽を記録する。

この発想は結局放棄されていて、最新版では、楽譜とその楽譜を演奏して得られる音とを独立した二つの資料と見なすこととしている。この二つの資料の比較を通して楽譜がどのように解釈されるかを調べる。楽譜と音とをともに電子化データとして、音楽を構成する単位に切り分けて、書かれた記号と演奏された音との対応を見るという目論見であり、連続音声認識装置の動作を念頭に置いている。

初期の自動演奏的なアイデアを放棄した一つの理由は、情報工学でなく情報科学を考えていたからだった。自動演奏的なアイデアは、一つの曲種についてまあまあな再現ができればよしとして、曲種ごとに別なシステム構成を立ててしまいそうな誘惑にかられる。もの作りならこれでいいが、この先、音楽という対象に迫る時には、この自動演奏系は音楽をどう捉えて組み立てているか、という所で、資料の整理が大変になりそうに見える。あとの方法は音楽の特性を調べることに焦点があるが、ある程度判ったところで既存の技術と組み合わせた参照システムを作ることはありだろう。但し、参照システムが最終結果なのではなく、音楽について知ることが最終結果ではある。

 

というわけで、何かを始めてみようと思っている。これから先は、対象として、音声研究と繋がり易いという期待感から選んだ、日本の伝統的声楽曲について見てゆこうと思う。まず、これまでに判っている範囲を出来る限り正確にとらえて電子データを作り、これが一段落したあとで、これまでに判っている範囲では常識として扱うとされていた語句の意味*3を音の物理的性質から調べるという進み方をすると思う。どこまで進めるかは全く不明ではあるけれど、伝統的声楽曲の口伝で伝えられてきた特質が記録できれば面白いと思っている。*4

*1:理想論を現実的な課題と組み合わせて、問題を定義し、この問題に対する解決策を立て、この解決策を実行し効果を評価し、有効性が確認できればさらに展開する。理想論でいるうちには思いもよらなかった障害が出てきて、理想論に戻って修正を加えて、なんてことが起こる。この例は、モデルの理論におけるゲーデル不完全性定理。つまり、自然数論を含むほど豊富な公理系をもつ数学には、その肯定形も否定形も証明できない命題がある。こういう命題に直面したら証明が行き詰まるので、それでも結論が必要なら公理系に戻って、何かしらの原理を追加することになる。

*2:言葉というもの、この単語については常識として、定義は聞かないでね、と言わざるを得ない単語がある。辞書編纂の話を聞いているとよく出てくる例は「右」、「左」。他人に相談を持ちかけるには、少なくとも、どの領域の基礎語を常識として使います、と宣言して宣言通りに話せるまでは、考えを整理しておかないと。これをやらずに専門家を訪ねると、言葉の意味がすれ違って、せっかくのご厚意が受け止められないことになる。

*3:つまり口伝で伝えられていた定義

*4:「音楽」という言葉に各人がもっている定義は、多分に、経験の集大成になっていて、本来の定義から外れていることがある。例えば「クラシック音楽」という日本語単語は、「小中学校の教科で習う音楽」という定義になっているように思える。音楽の継承に関する細かい所は小中学校では習わないから、本来の「18世紀ころ、対位法の音楽から和声法の音楽に作曲法の流れが変わった時代の音楽」という意味からはかけ離れている、初期ロマン派、印象派、はては後期ロマン派音楽まで、クラシック音楽の範疇に入っているように見える。それでも教材になればまだいい方で、三味線音楽(広い曲種ではあるが)以外の伝統声楽は、声明のように聞く機会が多くとも、「判らん」の一言で済まされてしまうのではないか。