狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

それがあるのは必要だから

「声明は音楽のふるさと」に限らず、伝統邦楽系の書籍にはよくこんな問答が載っている。

西洋音楽には楽譜があるが、伝統邦楽に楽譜がないのは何故か、という問いかけに対して、音は本質的に言葉で書き表す事ができないものであり、楽譜という形で書きとめる事に無理がある。伝統邦楽の世界ではこのことに早くから気付いていたから、楽譜に書きとめる事をしてこなかったのだ。*1

こういう問答を見るたびに信楽さんは、何かすれ違っているなぁ、という印象をもつ。以下、とりとめのない話。

 

信楽さん的には、楽譜を次のように考えている。

楽譜は音楽を伝えるために書かれる文書である。楽譜が作られるのは伝える必要があるためであり、そこには、伝える必要があると判断された内容が書かれる。送り手と受け手とが互いに了解している常識的な内容まで書かれていることはない。その意味では、楽譜は完全ではなく、常識を補って音楽が完成する。楽譜が完全ではない分、送り手と受け手には音楽に関する責任が求められる。

日本の場合、演者を絶やす事がないように、ある音楽を継承する立場に立つものの身分を保障する仕組み*2がある。音楽は、作曲・演奏・楽器と会場の整備の全てについて、流派の管轄の下で継承される。従って、指導者と継承者とは常に密接な関係を維持しており、口伝が成立し、音楽を書きとめる文書が特に必要となることはない。

西洋の場合、封建諸侯や教会が音楽を管轄していた時代でさえ、作曲家と演奏家とは招聘され、雇われて職に就くものであり、永続的に地位が保証されるものではなかった。作曲者、演奏者、楽器と会場の管理者との関係は流動的なものになるので、音楽を残そうと思えば、作り上げる音の組合せに関する基本的な仕組を書いた文書が必要になる。最終的な仕上げは演奏者の責任により行われ、高い評価を得れば継続して演奏の任に就く。

 

ところで最初に戻って、楽譜のあるなしに関する問答が何故起こるのだろうかと考えてみる。その理由の一つに、音楽を、外から、深く、理解したいという動機があるのではないかと思う。

例えば、日本の音楽の演目を何であってもいいから上演してみたいという動機のように。西洋的なイメージで演奏は、音楽は、ある原則に従って音を並べ、音の仕上がりを様々に加工しながら音楽を仕上げてゆくものと考えたくなる。ここで、本人と音楽との関係は、本人が選ぶ。日本の音楽を上演しようと思うと、本当に初歩の段階から指導者について、音楽への階段を一段一段上ることになる。ここで一つ注意すると、尺八の音楽を、音域が合うからといってフルートで吹くような、流派をクロスすることは絶対にできない。

西洋の音楽の場合、音楽の継承が流派でなく楽譜で行われることから*3、 楽器が代替わりして以降、古い時代の楽器のための音楽を新しい楽器で弾くことも、古い時代の楽器そのままで弾くことも、演奏者の技量と判断の問題であり、それ以外の問題ではない。17世紀のリュートのための楽譜から再現された音楽を、ピアノやオーケストラで演奏する例もある。

このあたりは、日本語で音楽という言葉は舞台公演を指し、曲を指すものではない、という原則*4を意識し、これからの日本語でどう考えてゆくかという問題なのだろうか。しかし単純な話ではなさそうではある。

*1:「声明は音楽のふるさと」では90頁以降に「楽譜の話」という節がある。

*2:流派と流派を継ぐ家

*3:解釈込みで継承するのでなく楽譜を継承し解釈は演奏者に委ねるという事情もある。

*4:要は音楽を継承する流派に迷惑をかけないということ。