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狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

催馬楽・朗詠譜の電子化

以前伝統邦楽譜を電子文書化してみようかと思って、少しだけ試したことがある。資料を見ながらWordに置き換えるという方法を取っていたが、場当たり的なやり方をしていたので、pdfに直したら書式が壊れたり、Wordの描画機能の制約の中で微妙な違いをどこまで取り入れるか迷ったりしていた。 

資料としては、書籍が手に入る限り、実際の譜の形を見た。具体的には、伝統邦楽譜全体*1、天台声明譜*2真言声明譜*3催馬楽・朗詠譜*4、などを見ている。

 

手さぐり中は気にする余裕もなかったのだけれど、催馬楽・朗詠墨譜集の第一曲、「あなたふと*5」をともかくWordファイルに置き換えてみた所でいくつか気になりだした。まず、もともとの譜が墨と筆で、手書きで書かれた文書であることから、通常のテキストファイル同様、図記号の包摂を考えなければならない。もう少し原則的な話として、口伝と楽譜と、どちらが優先するのだろうか。つまり、楽譜と口伝とが同じ内容なら、口伝が問題なく行われている限り楽譜は要らないのではないか。

 

後の方の問題は、最近、次の解釈で落ち着けることにした。

‐楽器の制作と調律には楽器の理論が必要。楽器で弾く音楽を伝えるには楽譜が必要。

‐自然発生的に成立した声楽を伝えるには、人から人へ音楽を伝えるやり方が必要。

ヨーロッパ圏に鍵盤楽器が現れるのは紀元前264年*6ということで、ヨーロッパの音楽には楽器に傾倒する部分がある。日本の古代史には古墳時代に先行して、縄文時代が1万年続いていた。歌が言語に先行するという仮説が正しければ*7、何かの歌があったと想定できる。楽器の遺品は多くないので、音楽があったとすれば、自然発生的な歌に違いない。

以上から、催馬楽・朗詠譜は、自然発生的な歌を雅楽の音楽理論で採譜して作られたものと思われ、口伝と楽譜とが同じ内容を伝えているというのは一つの仮説と考えることが妥当。従って、楽譜と音とは独立なものとして扱い、両者の異同については比較検討が要る仮説と考えたい*8

 

ということで、上代譜の仕組みを検討して電子化する作業が、やって全然無駄、ということはなさそうであり、途中で中断している催馬楽譜の検討をもう一回再開したい。現実問題、上代歌謡譜は、電子化しようと思えば文書構成要素に対応するリソース類から作ることになるので、華々しい話はこれ以降なくなる。ただ、うまく行けば、エディターなどが出来るかもしれない。

*1:金田一晴彦著、邦楽の楽譜、NHK交響楽団編、監修 小泉文夫、日本と世界の楽譜、楽譜の世界3、日本放送出版協会(昭和49年9月20日第一刷)、 P29~

*2:天納傳中、天台声明と五台山念仏へのいざない、声明、大原魚山声明研究会、春秋社

*3:大栗道榮著、よくわかる声明入門国書刊行会、平成13年8月

*4:薗広進監修、催馬楽・朗詠墨譜集、日本雅楽会、昭和54年8月

*5:安名尊-あなとうとし

*6:Wikipediaによれば、アレキサンドリアに住むクテシビウスが水オルガンを作成した、とある。アレキサンダーのはじめにある”al”がアラビア語の定冠詞に聞こえたから、という訳でもないと思うが、アレキサンドリアアラビア語でイスカンダルという^^;。

*7:スティーヴン・ミズン「歌うネアンデルタール

*8:後藤健「メソポタミアとインダスの間」によれば、両文明の間には交易路があって、物品の交流が盛んに行われていた。上代歌謡に影響のあった音楽に関する証拠は、音の記録が見つかるまでは判らない訳だけれど、琵琶はもともと西アジアの楽器であり、仏教はインド起源であり、当時の交易の範囲は意外と広い。だから上代歌謡に影響のあった音楽を考える時に、「判らない」即「ない」と断言することはできない。こういう理由もあって、記譜と口伝とは区別しておきたい。20160320追記