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狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

詩人と歌人の違いか?

以前、言葉の勉強を兼ねてフィンランド歌曲集の歌詞を翻訳したことがあった。トリオレコード フィンランド歌曲集(Stereo PA.1016)というLPレコードの歌詞カードについていた詩をテキストにして、自分で辞書を牽いて意味を考えて、訳文を作っていた。そのときに、いくつか意味が捉まえにくい単語があった。今回はそのなかから、詩人と歌人に関連して。

 

上記LPレコードに入っているヌンミの歌曲の中に、「でも僕はrunoniekka」という曲があった*1。この単語が出てくる部分を翻訳するとこんな風になる。

2.

それはもし僕が”Piirtäjä”だったら、

選りすぐった百の言葉をつむぎ合わせて詩を作るだろうね、

たった今あの谷で見たものを。

3.

でも僕は”Runoniekka”。

あたまの先からつま先まで生粋の”Runoniekka”。

だから僕は歌うのさ、眩いほどの君の姿を。

そう、たった今あの谷で出会った君を。

 

一番の歌詞では、もし自分が画家(maalari)だったら、となっている。それはともかくとして、2番と3番に出てくるPiirtäjäとRunoniekkaはどちらも詩人と訳せるのだけれど、runoniekka、歌うための詩を書く詩人らしい。だからと言う訳でもないけれど、両方を詩人と訳すと歌詞が混乱する。

 

Piirtäjäを詩人と訳すのはやむを得ないとしても、問題はRunoniekkaをどう訳すかということになる。候補としては、歌人、シンガーソングライターなどがあるけど、どの訳語が適当かということを決めるには、結局先方の事情が判っていないと手も足も出ない。*2結局それで、この時の記録によれば、Runoniekkaは「歌うたい」と訳してある。

 

それにしてもRunoniekkaという人たちはどういう詩を作っていたのだろうか。

信楽さんがもっているフィンランド音楽に関する印象は、次のLPレコードに寄る所が大きい。

・アーゴ民族音楽シリーズ「極北の音楽」(キングレコード、GXF5702)プレス1975年

特にこの第一面第三曲、小舟にて(Venheessä)に強い印象を受けた。この曲は、カンテレというチターの仲間の楽器による独奏曲で、繊細かつ清楚な音が記録されている。

 

このレコードの同じ面には、カンテレの伴奏による歌が四曲入っている。そのうち二曲はカレヴァラから題材を取っており、もう二曲は信仰についての曲と、人生についての曲とからなる。Runoという詩は後者のようなものかと思っていたので、Runoniekkaだから谷で出あった人の姿を歌う、という内容に意外な印象をもったのかもしれない。

 

ところで日本のうたを上代歌謡から始める事にすると、うたもの、語りもの、などいくつもの演題が見つかる。これらとRunoniekkaという歌うたいとはどのような関係にあるのだろうか。と思い始めると、二兎を追うものは状態に陥る。

ここはこれまでの行きがかり上、Runoniekkaを手掛かりにするのがよさそうではある。信楽さんは、強文化圏に挟まれてそれでも自身を失わない文化圏に興味と共感とを覚えることもあり、言葉(数理言語を含む)と音楽にいろいろ寄り道しながら進んで行こうと思っている。

*1:問題の単語だけ原語、残りの部分は信楽訳。

*2:もちろん、受験やおしゃべりみたいな、その場限りの訳文が思いつけばいいというシーンなら適当に処方しておけばいいのだが、記録に残してあとあと振り返ってみようと思うなら、そんなにいい加減な態度で訳文を作る訳にもゆくまい。