狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

日本語にも冠詞相当の言い方がほしい

普通に聞ける音楽にも伝統邦楽、西洋音楽仏教音楽等々あり、この辺りの事情は次のように書けるだろう。

音楽=伝統邦楽+西洋音楽仏教音楽+・・・・

この式の右辺と左辺には同じ「音楽」という言葉が出てくるが、次の違いがある。

左辺の「音楽」は、右辺の個々の音楽をひっくるめて代表する、抽象度の高い言葉。

右辺の「音楽」は、それぞれの音楽を表す具体的な言葉。

あるいは無理やり集合の記号を使うと次のようになる。

音楽={伝統邦楽、西洋音楽仏教音楽、・・・}

要素に上がっている伝統邦楽、西洋音楽仏教音楽、・・・は、それぞれが固有の意味をもつことから、具体的に捉えようと思うなら、特徴的な性質の集まりを考えることになる。

音楽=伝統邦楽〔・・・〕+西洋音楽〔・・・〕+仏教音楽〔・・・〕+・・・・

音楽={伝統邦楽{・・・}、西洋音楽{・・・}、仏教音楽{・・・}、・・・}

 

この書き方が示すように、

音楽について包括的に話す事と、

伝統邦楽について話す事、

西洋音楽について話す事、

仏教音楽について話す事とは、音楽という対象をみる見方が違っている。

同じように、伝統邦楽、西洋音楽仏教音楽、・・・のどれについて話す場合でも、その音楽がもつ固有の意味について、特定の見方に基づいていろいろな意味付けができる。結果は、その音楽(伝統邦楽、西洋音楽仏教音楽、・・・)についての包括的な話しではなく、その音楽についてのその見方に基づく話し、ということになる。

日本音楽の本を読んでいると、包括的な話しと個別の話とが区別されていないと見える部分に出会う事があり、そういう箇所は何か読みにくい。

 

手元にある伝統邦楽関係の本*1を読んでいると、どうも読みづらい箇所がある。その読みづらさは結局、「日本音楽と西洋音楽は同じ意味付けができる」、「日本音楽の意味付けは西洋音楽における意味付けと比べてここが優れている」という説明パターンになっていることに尽きると思う。この、「日本音楽と西洋音楽は同じ意味付けができる」という前提に無理があり、結果として日本音楽の説明も要領を得ないものになっている。このあたりを、竹内著、日本音楽の基礎概念の6節、「日本音楽にはなぜ指揮者がいないのか」、を例にひとくさり・・原著53頁から62頁に対応。原著には56頁に『日本における西洋音楽は、西欧のまねだから(指揮者を立てている)』とあり、この辺りが西欧音楽に関する信楽さんの理解とかけ離れているので、比較のために指揮者の役割についての筆者の理解を書いてみた。

 

指揮者の役目は、西洋音楽の考え方に関係している。西洋音楽では、Aという音楽の楽譜は、Aという曲の音を実現する際に従うべき指示書*2という意味をもち、音楽はこの指示書の意図を演奏者が演奏ごとに解釈して、音に具体化される。

楽譜に関する誤解の一つに演奏者は楽譜に拘束されるというものがある。工業標準同様*3、楽譜も、書かれている内容には演奏家の裁量に任されている部分がある。例えば楽器。「ハンマークラビアのための大ソナタ」という作品名に出てくる「ハンマークラビア」は今のピアノの前身に当たる当時の楽器であり、今のピアノとは性能が違う。この曲を演奏するには、演奏者には、今のピアノを使う/ハンマークラビアを使う、という選択肢があり、演奏者の意図に応じてどちらを選んでもよい。つまり、作曲当時の楽器を使うか、今の楽器を使うかは演奏家の選択に任されている*4

楽器の選択から始めて、音符をどう音にするか、曲の大きな区切りから個々の音符に至るまでの演奏法をどうするかを演奏のたびに、最初から、演奏者が協議して決めるには、協議を指導するための座長が必要になる。その座長の役目を指揮者が負う。

 

他方日本音楽は、基本的に完成された型を継承することにある。また楽器により、継承する家が決まっており、作品の解釈まで含めた全てをその家で継承する。だから、演奏当日に必要な事柄には音楽の進捗状況を示すタイミングが残る位であり、音楽の作り方に関する全体協議は全く要らない。従って、指揮者の役割はそもそもない。それどころか、次の事情があり、指揮者の役割を引き受けられる人は見つからないのではないか。

それぞれの演奏家は技芸を継承する家を背負って参加してくるので、その演奏についての指図はそれがどのようなものであれ、その家の継承の是非について注文を付けたことになる。最悪の場合刃傷沙汰が起こる(刃傷沙汰は誇張が過ぎるか)。日本音楽の本で西洋音楽で指揮者の役目をタクトしか見ないのは、伝統音楽的な見方が影響しているのだろう。この辺、ブラスバンドを経験している人は、西洋音楽の指揮者の役割を具体的に体験しているのではないか。

 

それはともかく、西洋の音楽と日本の音楽との間には、歴史的、習慣的な事情を反映してこの位の違いがある。違いを無視して片方に特有の意味付けをもう片方に求めて、それがないからと言って、それを根拠にして、あるからどう/ないからどう、と言えるとも思えない。

例えば、歌の声についてこんなことを考えてみる。曲を聴けばすぐわかることだけれど、歌の声について、西洋音楽の声は高域の周波数成分が抑えられており、日本の民謡では高い周波数まで成分をもっている。その分、日本民謡の声はけたたましい感じがすることがある。

ある無しだけだと、当然あるべき特性がないと言っているように見えてしまうが、あるなしが逆転する特質を添えると、それぞれの特質が見えてくることがある。

声については、周波数成分を見る限りは抑制されているかいないかの違いであるけれど、同時に、歌い手の発声時の残響特性*5を見ると、発声時に声を響かせているか否かが判り、広がり方が逆になっている。

 

始めに戻って、

音楽=伝統邦楽〔・・・〕+西洋音楽〔・・・〕+仏教音楽〔・・・〕+・・・・

をきちんと考えようとすると、伝統邦楽、西洋音楽仏教音楽、・・・のそれぞれについて、まず他からは独立に固有の意味付けを行う必要があるのではないか。比較のための見方を設定して比較するのはその後の話でいいように思える。

 

これを実行しようと思うと、個別に述べた何かから包括的に述べた何かを区別する言い方を頻繁に使うことになる。これは非常に煩雑な気もするが、同時に、英語なら、冠詞なし-不定冠詞つき(ある部分)-定冠詞つき(特定の部分)、固有名、という書き方があって、区別して当然というセンスがある。

学部の頃に使っていた解析学の教科書の序文に、数学書を書く上で日本語が不便な点という記述があって、二重否定があることと冠詞がないことが書いてあった。二重否定は日本語固有の事情ではないので*6置くとしても、冠詞についてはないと不便だと思い始めている*7

*1:竹内道敬著、日本音楽の基礎概念、放送大学印刷教材。月渓恒子著、日本音楽との出合い、東京堂出版。他数篇。

*2:意外と工業標準の規格書とか、ソフトウェアの仕様書とかに似ている。

*3:工業標準では指示の内容に、厳守から参考までの階層があり、全てが厳守という訳ではない。

*4:楽器を厳密に指定されたら、演奏する毎に指定された楽器を用意することになる。アルペジオーネのように今は全く使われていない楽器のための曲は楽器がないという理由で演奏不可能になる。あるいは、曲を継承する団体がもしあれば、楽器も維持管理し続けなければならないことになる。

*5:周波数特性の対数を取って逆フーリエ変換して得られるケプストラムというパラメータは残響特性を示す。フーリエ変換では周波数領域での特性の広がり方と時間領域での特性の広がり方とが逆になるので、周波数特性が高域で抑えられている声は残響特性が広がっている。

*6:ハンガリー語にもある。

*7:ハンガリー語の場合、定冠詞az、不定冠詞egyがある。