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狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

まずは言葉の整理から

狸言

以前ふと立ち寄った楽器屋さんで、催馬楽・朗詠という上代歌謡の譜や能楽の譜(謡曲譜)を見つけた。学生だった時代(もう半世紀も前になるのか^^;)に見た、電子計算機が世に出る直前の時期に行われた研究に、映画のフィルムと顕微鏡とを使って音声波形を観測して、今で言うデータリダクション型ピッチ推定法の先駆けみたいな方法で声の高さを推定して歌の特長を調べた仕事*1の印象が残っていて、計算機と組み合わせて何かができるのではないかと思っていたのだった。それから日本音楽の書籍をいくつか読んでみて、ふと、こんなことを思った。

【言葉を整理しないと、とても読み切れない・・】

 

誤解のないように意味を補足すると、ここで言う言葉を整理するとは、無駄な言葉が多すぎるという意味ではなく、文字と文字が指す内容との対応関係を整理する、ということを指している。

文字は日本語の圏内ならどこまででも流通するが、その文字が運んでいることになっている意味にはある有効範囲がついている。困った事に、有効範囲の切り替わりは意識していても掴みにくい。有効範囲が切り替わったことに気付かないままその文字を読むと、意味がすり替わった内容で、元の文を読むことになる。

例えば「木構造」という文字には、情報系の領域なら「分岐構造」という内容がつき、建築系の領域なら「木質材料で作った建築物の骨格」という意味がつく。建築系の先生がたまたま情報系の取り扱い説明書を読んで、「木構造」という用語に違和感を覚えると、違和感の理由を説明しないまま*2、情報系の用語を担当している部署に質問を持ち込むことがある。持ち込まれた方も、意味がすり替わっていることに気付かないと質問の趣旨が理解できない。

 

音楽という領域は、西洋も日本も、これまで百年以上自分たちの理論に基づいて音楽を継承してきた。だから、言葉の意味を説明するということは、自分たちの音楽の理論を自分たちの言葉で説明する、ということになる。それで何の問題も起こらなかったら、何の疑いもなく、自分の音楽の言葉で自分の音楽を語り、それが世界だと信じて疑わない。しかし一つの地域で複数の音楽が行われるようになると、文字と内容のすれ違いが頻繁に起こるようになる。

 

よく見る例が、音楽で言う「クラシック」という文字。日本語ではほとんどの場合、コンテンツ業界の用語を放送で使うという形で見かけるから、コンテンツ製品の分類項目の一つという意味で使われている。

音楽学の用語なら、対位法の音楽から和声法の音楽に切り替わる時期の音楽であり、音楽の形式*3を調性の対比によって展開するという特長をもつ、とでも言うのだろうか。ともかく、新しい原則に基づく音楽の作り方が確立した時期の音楽を指す。

この時期は意外と短く*4、すぐに原則を緩和する方向が模索され始める。現在では、調性の対比に基づく音楽の展開という方法で書かれた音楽は、特に耳慣れた響きが必要なとき限定で使われている。コンテンツ業界の分類では目が粗すぎるから、作曲家で分類することになるけど、これはこれで目が細かすぎることになる。

 

話を日本音楽に戻す。まず「音楽」という文字が指す内容が、日本音楽と西洋音楽とで違いがある。

日本音楽では演奏者の発言権が強く、特定の曲は特定の演奏家の演奏のありよう全てを含めて「音楽」と呼ぶ。西洋音楽に見られる、音楽は作曲家の創作物であり、演奏家の創意を加えて音として具体化される、という考え方はとらない。

 

特定の演奏者の舞台が音楽であることから、音楽を習得することは、その演奏者の舞台を見て真似る所から始まる。この教授法では、ある曲を構成する音がもつ特性に関する要求仕様書という意味での楽譜は無くてよく、楽譜は師範直々の教えの要点を記した文書としての性格をもつ。

要求仕様書が指定する内容には遵守に強弱があるように*5、音がもつ特性に関する要求仕様にも遵守に強弱がある。音の高さのように逸脱できない要求があると同時に音の長さや強さは演奏家の意匠によって変えてもよいということになっている。

これに対して楽譜が師匠直々の教えを記録したものであるなら、書かれた内容は全てが必須要件であり、演奏者の裁量権というものは考えられない。

 

このあたり、音楽が現在まで継承されてきた目的が関係して決まっている特質らしい。それぞれの音楽に特有な事物にはそれぞれの音楽に固有の事情があり、それぞれに正しい。それぞれの音楽の中で生きていると、これが世界の全てだと錯覚するところがあり、結果として、ある音楽に固有な事情を別の音楽に強制する、あるいは、自分の知っている音楽が最高・・と主張しがちになる*6・・

しかし勝負師でもあるまいに、<自分の知っている音楽の世界と違う音楽に出合った時にはまず先方をこき下ろしてみる>という習慣をお持ちの方が結構いるが、こういう習慣はどういうものだろうか。

ピアノと琴とを比較して、ピアノは「アマチュアが使いやすいようにする方向に進化した、不器用な民族の考えた楽器」と書いた本がある。

持ち歌制度や家元制度がある世界なら、ある曲の歌い手は制度上一人だけだから、「売り上げXXX枚の名曲」と言っても意味が通じるけど、こういう制度を前提としていない音楽も含めて売り上げで測ると、言葉の意味がよくわからなくなる。

 

主張するのは自由だけれど、いろいろな立場から来る質問に責任をもって回答し続けることができるのだろうか。

 

話がややこしくなるのは、言葉=文字+内容であり、文字と内容の有効範囲がずれている結果、内容が切り替わった時点で言葉の意味がすり替わってしまうという現象が起こるからだろう。

もう一つ言うと、音楽には、音声言語同様、音という側面と、ある内容の表現という側面とがあり、内容などは考えずに*7ひたすら音を聞くという付き合い方があり、「何故この音」ということさえなければ、意味のすれ違いなど意識することもない。

それから暫らくして「何故この音」が気になりだすと、その音楽に限って、いろいろと調べだす。結局、特定の音楽の中で生きていれば充分ではないか、という結論になる。

 

その位に、異なる文化を対等な立場に置いて了解し合うのは難しい。ごく浅い聞き方からもう少し深い聴き方*8に進もうとすると、間の溝が意外と深い。せめてこの溝を埋めるには、それぞれの音楽をそれぞれの音楽を有効範囲に持つ言葉で書き、音楽を比較する場合には、比較のために設定する窓を明示して比較するようなことが出来ればいいのだけれど、そのためには、音楽毎にその音楽を有効範囲に持つ言葉を整理する所から入るのだろう。

*1:兼常清佐による日本民謡研究

*2:建築系では常識だから説明は要らないはずと考えて・・

*3:ソナタ形式など

*4:うるさいことを言うと、ショパンの小犬のワルツはロマン期の音楽ではあるがクラシック期の音楽ではない。

*5:工業標準の場合には、遵守が必須、強く推奨、規格としてこの基準を薦める・・

*6:ある価値観に基づいて真剣に毎日を送っていればなおさら。

*7:つまり、音楽を言葉で説明することなど一切考えずに。この方向を代表する標語に「音楽に国境なし」がある。

*8:注記:聞き方はCognition、聴き方はRecognition。