狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

口伝の功罪

音楽であれもの作りであれ、実世界と直接関わりあう技芸を継承する場面では多かれ少なかれ口伝が必要になる*1

西洋音楽では作曲の基礎的な部分にさまざまな書籍があってもそれは原則であり、具体的な曲には原則を外す部分がある。それでも楽譜があれば、原則を外した所を確認はできるが、何故外したかは本人に聞くしかない。演奏の部分では、出版されている楽譜や参考書は作曲の書籍と比べてもっと原則論であり、演奏家個人からの直接指導を仰ぎ、自分の演奏に磨きをかけることが普通に行われている。ある演奏について、何故かを知ろうと思えば、最後には本人に聞くことになる。

日本音楽には作曲と演奏との区別はなく、演じる舞台設定まで含めて一つの芸能として把握されていて、芸の部分は口伝が原則になる。

実世界では一つの事象が無数に変化するから、その全てを有限個の記号で書き表そうとしても無理がある。だからどうしても、どこかに口伝が入る(功の部分)。でも程度問題があって、口伝が主体だと困ることがある(罪の部分)。

 

以前、技芸の継承を表す次の図を書いた(思いついた)ことがある。

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舞台で公開される芸能は成果であり、これは明示的に示される。この成果を導いた、基礎、当代の工夫、及び外的要因の三つの要素の内、基礎と当代の工夫は口伝で、外的要因は漢籍などの文献資料で、伝わるという状況はありそうな設定と思っている。

この設定に拠ると、外部から見ている人には成果と外的要因とは見えるが、ある意味肝心な、基礎と当代の工夫とが見えてこない。これは悪くすると、外部から見ている人から「当代の成果は外的要因の真似ごとか?」などと問われかねず、この問いに対する回答としては、「質問者自身が口伝を受けて体得する。」以外ないという事態を招く。この設定が正しいか、という問いは別途あるにしても。

また日本音楽の全体をとおした理論はない、とはよく言われる。では、理論が作れるかというと、ある流派・宗派を口伝する担当者は自身が継承する内容を文書化することは、原理的にはできても、作らなければならない文書の量の関係で、実効的には実行できない、ということは起こり得る。

 

ところで西洋音楽では、原則を文書化し詳細は口伝によっている。これを考えると、日本音楽で「原則を文書化し、詳細は口伝とする」というようなことが出来ないかな、と思うことはある。出来るだけ多くの宗派・流派で認められる原則が作れれば、それは日本音楽の理論と言えるものになるのではないか。

*1:実世界が充分に規格化されていて変化が抑えられていればともかく。