狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

真実は星の数ほどもある

またまた大きな表題をβ(^^;)。

要はこんな話。真実と言ってもこの世界に係わる限りはこの世界の見方に依存するのだから、真実はこの世界と呼んだものの数だけあっても不思議はない。真実という言葉は、同じ世界を同じ見方で見ているかを確認するところから始まる。

 

実際、地に足を付けて見渡す範囲にある三角形はユークリッド幾何学の教え通り内角の総和が180度と考えてよいのだが、これが地球全体になると、球面幾何学の教えに沿って三角形の内角の総和は270度にもなる*1。宇宙全体を見ると、時間と空間の性質の違いから、双曲線幾何学の教えに従うことになる。宇宙は一つでも、見る範囲によって見え方が違ってきて、その分見え方に係わる真実が違ってくる。

それでも書く仕組み*2の方については、一つの理論に収まる。書く仕組みが進化してもこの世界が変わる訳ではないので、世界の見方が同じなら、書く仕組みに拠らず結論は同じ。幾何学が違えば、基礎の数式に違いが出てくる。

それでは仕組みのサイドでこの世界に全く係わりのない理論なら真実は一つか、ということで、例として数学を取って考えてみると・・

一つの公理系と証明図式とから証明できる命題の全てからなる集合*3を考えて、この集合を数学*4と呼ぶ事にすると、一つの公理系には無数の数学が対応づけられるという定理がある*5

普通に数学と呼んでいるものは唯一に見えるが、これは数学基礎論では、標準的な数学(標準モデル)と呼ばれるもので、その他にも無数の数学が可能なのだとか。但し、数学の常で、存在することは保証するが、構成できることを保証するものではない。ある意味例外的に、実数論については、実数の標準モデルを拡張した非標準モデルが作られている。

どうして無数の数学が可能かというと、どうも、数学的帰納法を通して、証明する、という所に「有限な存在としての人間」が顔を出し、この世界とのつながりができている、ということらしい。

 

この、真実は星の数ほどもあるという話は実生活でも、一つの世界の中では長らく真実であったが、複数の世界が出合った所で別の真実が現れる、という形で具体化する。往々にして、どちらの世界の人にとっても、その中にいる人にとっては間違えることなく唯一の真実だから、その外の世界にある真実が理解できない。この事例は、西洋音楽から見た日本音楽関係の記事、日本音楽から見た西洋音楽関係の記事などを見ていると、本当に頻繁に見つかる。

どちらの世界でも^^;理解を諦めた人は決まって、「外の世界はうちの世界より見劣りするからこんな話を信じている」という感想を漏らすのだが、こういう感想が出てくる立場に留まる限りは先がない。

 

この世界はいくらでも変わり、記号の形は変わることがない・・とすれば、言葉にはある所で、「ここから先は問わない」ことにして定義しない語句がある。世界が違えばこの「ここから先は問わない」部分が合わない事もあるけれど、言葉による定義がない語句の定義をどう伝えればよいのだろうか。

例えば「音楽」という言葉からして、「西洋音楽」の世界では作曲家の創作物を指し、「日本音楽」の世界では演奏家が舞台で演じる芸能を指す。日本語でいう音楽は長らく「日本音楽」の世界で意味づけされてきていて、社会もそういうものとして受取っている。だから、放送やメディア販売のように社会に深く係わる世界では「西洋音楽」の曲を「日本音楽」の意味で紹介することがあって、一種違和感を覚える。

例えば、「CD売り上げX万枚の名曲」という言い方は演奏家サイドという意味で如何にも日本音楽的*6であり、西洋音楽を売り上げに結びつけるのは無理があるのにな、と思う。

*1:極点で90度に分かれる線を書き、赤道のところで地表の線と交差させる。

*2:多様体理論という数学があって、ユークリッド幾何学、球面幾何学、双曲線幾何学という仕組み

*3:仮に集合と言っておく。無限個の命題があったら全ての命題を証明し尽くせる訳ないので、集合と書いたがその要素が本当にあるのかないのかは、あると信じる以外ない。そういう集合。

*4:考えている公理系から導かれる

*5:レーベンハイム・スコーレムの定理

*6:ある曲については一人の演奏家が独占的に演奏権をもつという制度を持ち歌制度と言うが、こういう制度がある世界ではCDの売り上げが支持率の指標にはなる。