狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

大旋律と小旋律

日本の音楽に出てきて最初はよくわからない用語の一つに、大旋律と小旋律というものがある。たとえば聲明(「せいめい」と読まれないための書き方。以下では声明とする。)の場合:

声明のメロディを伝統的な書き方で楽譜に作ると、音の高低は折れ線のような図形で書かれる。この折れ線を構成する線分には、単純な直線の他に、特徴的な突起や波線を含む線分が含まれる。この線分はある約束に従って発声するメロディを表している。言わば、折れ線を大きなメロディとすると、各線分は一つの小さなメロディを表す。この意味で、折れ線の方を大旋律、線分の方を小旋律という・・のだと思っていたのだが、そうそう単純な話ではなかった。

まず、この線分の書き方が、真言宗の声明と天台宗の声明とでは違う。真言宗の声明では折れ線の先頭に丸印がつくものがあり、この種の譜では折れ線は線分を繋げて出来ている。これとは別に、曲線で書き、追加の記号をもつ書き方で書かれるものがある*1天台宗の声明では、図形としての線分のパターンがずっと多種多様なものがある*2。いずれにしても、この線分、図形の集まりが決まったセットをなす、といったものではないらしく、経文により、その経文が使われる場面により、決まってくるものなのだとか。

メロディが纏まってできる曲にも、単音とは少し違う意味で、大旋律と小旋律のような区別があるらしい。日本の音楽では、メロディと文学的内容とが非常に深く係わりあっていて、次のような手順で作曲を行うことがあるという。

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音楽をまず文芸的な内容と置き換えて、従来慣用語になっている豊富なレパートリーの中から、その文芸的内容の象徴として適合するいくつかの旋律型を選び出し、それらを平面的につなぎ合わせるということが基本になっている。(日本傳統音楽の研究、小泉文夫著、19頁下段から要約。)

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これらの文章をそのまま読むと、作曲家という立場の人がいるのかがよく判らなくなる*3

 

日本の音楽では、一つの公演全体を単位として見る習慣があるらしく、その公演を構成する一つの要素として音楽がある。こう考えると、まず公演のプロットありきで、公演のストーリーに関連づけて音楽の素材が選ばれるところまでは判る。

よく判らなくなるのはストーリーと旋律型との近さで、メロディを聞いただけで具体的な情景まで連想できる、その位まで音楽と文芸的な内容とが密着している状況は、西洋音楽の習慣からは違う世界と思わざるを得ない。

 

西洋音楽にも、ビバルディの「四季」、シェーンベルクの「清められた夜」、など、詩の展開に沿って展開する音楽があり、シェーンベルクの五つの管弦楽小品集の中の「色彩」のように、ある湖の夜明けから日没までの色彩の変化を音色で描いた音楽というものもある。清められた夜には次のように始まる詩が添えられている*4

「魂の抜け殻が二つ、冷たい不毛の世界をさまよっていた。

月は背の高い樫の木を照らし、

雲ひとつない月の光を受けて、木々はやせこけた枝を一杯に広げていた。」

詩を見ながら音を聞くと、詩の展開と音の展開とが同期していることは判る。しかし、別の曲で、この詩句の内容を表すために音楽の一部を移し替えることは考えられない。日本音楽ではこれができる位に、音と文芸的な内容とが深く係わりあっているらしい。

 

実は単音レベルでも、音には文芸的な理解が係わりあう。「よくわかる声明入門」によると、声明のメロディを構成する基本的な5音には、音の高さが低い方から高くなる順に、「宮」、「商」、「角」、「徴」、「羽」という名がついているが、これらの音はただ高さで区別されているだけではなく、大日如来無量寿如来、阿閦如来宝生如来不空成就如来に対応するという。この辺りの違いは、歴史的な成り行きから、作曲、演奏、楽器提供、会場提供がそれぞれ分業体制の下で運用されてきた西洋音楽と、全てを一括して流派、宗派の創家が統括してきた日本の音楽との考え方の違いの一面なのだろうと、信楽さんは思っている。日本音楽が文芸と密接に係わるのは、音楽を実際に公演したときの形を伝承する努力の結果なのではないか。

 

ところで、西洋音楽から見た日本音楽像、日本音楽から見た西洋音楽像ともに、観察者の目が鈍いと吹き出したくなるような変な文章ができたりする。ある日本音楽の本によれば、ある日本人が日本の歌として西洋起源の曲を紹介したことを以てとても恥ずべきことであり、日本人なら歌舞伎大一番の一場面を紹介して当然だ、というような内容を書いていた*5。でも西洋音楽の習慣にならって音楽を作曲家の創作物と考えると、そう言われましてもね、と言いたくなる次の事情が想像できる*6

日本音楽は独立した表現としての立場に欠け、芸能の一部にすぎない。この理由から、その音楽を含む芸能自身は尊重に値するにしても、曲自体を指して(作曲家の創作物としての)音楽と呼べるのだろうか。

こういう常識の衝突は、仲間内のような気楽な雰囲気で語るとつい言ってしまいそうになるものではあるのだけれど・・ それはともかく。

 

大旋律、小旋律は演奏者にとっては音楽表現の基本に係わるように見えるので、蒐集はある意味辞書作りに似ていると思う。多分蒐集を始めると、収拾がつかなくなる。ただ、日本音楽の構成法の基本に係わる部分のようなので、桝を作っておいて中身は各自入れてもらうようにはできないものだろうか。*7

*1:よくわかる声明入門、大栗道榮著

*2:声明、天納傳中著

*3:作曲家という立場の人がいないように見える。

*4:原詩はドイツ語、楽譜に添えられていた英訳から信楽さんが訳したもの。

*5:同じような趣旨は数冊で見かけた。

*6:あくまで想像です。

*7:桝とサンプル、桝と高級品を区別できるように。