狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

前進ある蚤もほどほどに

ここ数日、これまでの説明のやりかたが基本的に間違っていたことに気付いた。

情報民族音楽学という言葉を何の断りもないまま使えば、「情報」、「民族音楽学」という言葉は、当然、一般的な意味で理解される。もし特殊な意味づけがあるなら、その意味づけを説明するところから始めなければ話が伝わらない。この辺り、イメージ的には気がついていても、言葉でどう表現すればいいのか判らなかったので、無定義なままでここまで引っ張ってきたのだった。

何かうまく言えていないから説明の事例を作ろうとして音楽の領域で前進を続けても、それを何故扱うか、という設問に答えるには結局最初に戻ることになる。ここで定義のない、定義を常識に任せている語句の定義を巡って説明不足が起こると、言葉を使って説明を続けることができなくなる。民族音楽学の名の下で何を明らかにし、そのために情報(技術)がどう使われて、結果がどこに使われるのか、というお決まりの問いかけに関連して。

 

信楽さんが気にしている問題は、音楽を説明する言葉が往々にして引き起こす行き違いをどう解決できるか、という内容をもっている。音楽では、音と映像とを使って何かの表現が行われる。音と映像とを認知することは国境なしにできるが、表現されていることを認識するにはその音楽の約束事に通じている必要があることから、国境との関わり合いが起こる。この認知と認識とは不可分な関係を以て個人の内部で行われることから、聞くだけで終わるならともかく、内容について語る場合にはその言葉がその個人のもつ知見に基づいて選ばれることになる。結果として、まったく同じ音楽を聞いて、その音楽について語る時であっても、言葉がもつ内容が話し手と聞き手の間で全くすれ違うことが(頻繁に)起こる。

例えば音楽は作曲家の創作物という常識と、音楽は演奏家の公演という常識とがあるとする。「時代に大きな影響を与えた名曲」という言葉を前者の常識で受け止めれば「同時代から以後の作曲家の創作に多大な影響を遺した作品」という理解が生まれ、後者の常識で受け止めれば「その時代に飛びぬけて多くの聴衆にアピールした演奏者の曲」という理解が生まれる。CDの売り上げは後者の意味で影響を測る尺度にはなっても、前者の意味では影響を測る尺度にはならない。

 

信楽さんの思う所音楽を伝える言葉の難しさは、その約束事を伝える言葉が音楽それ自身から切り離しにくく、約束事が異なる音楽を比較するには仲介する言葉が要るのにそれがない、という点にある。情報技術はある意味で、新しい言葉を作る活動をしてきた。ここでもこの活動をうまく具体化できないものだろうか。

こういう思いを裏にもつ情報民族音楽学なのだが、この内容を伝えるには、前進ある蚤をいったん止めて、この目的意識を再確認することが必要なのだろう。