読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

人文科学のための情報科学

狸系の目

前回から今日までの間に引っ越ししていた。ひと月なんてあっという間に経つ・・

 

科学という言葉は自然科学の同義語みたいに感じるのだが、人文科学という言葉もあるから自然科学と同義語という訳ではないだろう。何かについて知ることには違いないにしても、知るために使う方法に何かの特徴があるのだろうか。物理学を例にとると、知る対象は自然現象であり、知る方法は次の図に拠る。

f:id:Y_Shigaraki:20170208202921j:plain

ここで上の図の意味する所は:

自然現象を観測して背後にある法則を帰納し、帰納された法則に基づいて現象を再現して法則の自然現象への適合性を確認する。この帰納と演繹のサイクルをとおして法則を洗練する。

 

自然科学の場合、対象は全ての人が住む宇宙であり、この対象を全ての人が同じ手段で観測する。単位と呼ばれる客観的な定義をもつ量を、観測精度を校正できる観測装置をつかって観測し、対象のモデルは単位付きの数値を使って表す。さらに、宇宙の寿命はとても長く100億年とも言われている位だから、せいぜい数万年程度しか経っていない人の経験する時間の流れの中では、宇宙が従う法則の変化が観測されることはない。

以上の特質から、自然科学では、全世界で有効な法則があると考えても問題になることはない。問題が起こる場合は、観測手段が格段に発展して、それまでの観測手段では見えなかった世界が見えてくるときに明確になる。例えば、古典力学と古典電磁気学とから与えられる水素原子は1秒ももたず消滅する。

これに対して音楽のように、地域毎・時代毎にそれぞれの環境に従って独自の発展をしてきた対象は、いくら音楽に国境なしと言っても、音という現象が同じ法則(音楽理論)に従う理由は全くない。同じ法則に従うことが発見されようものなら大発見ということになる。*1日本国内ではいくつもの流派がそれぞれの音楽を伝えているが、これらが同じ法則に従うことは期待できない。特に、明示時代に西洋から移入された音楽とそれ以前の伝統邦楽では。

 

音楽を伝えるには言葉に拠るが、困った事に、言葉は柔軟すぎるので、次の図のような意味づけで運用することができてしまう。

f:id:Y_Shigaraki:20170208202859j:plain

問題は言葉を使う人の側にあって、複数の文脈を切り替えて言葉を理解するには人に特有の負荷をかける。いちいち文脈を指定すれば、知らない文脈で話すことに警戒感を産むにしても、固有の文脈が違う人の間では会話が成立しない事になる*2

 

特定の文脈に属する言葉だけで音楽を記述することにすると、実に不自由な事が起こる。例えば日本音楽を記述するために、西洋音楽の文脈で自然な解釈ができるが日本音楽の文脈では規定内容が一致しない、五線譜が使えない。

 

おそらく他の文脈で使われる意味を引用したくなる事態は、無定義で使いたい常識語に理解を促すための説明を添える時に起こる。こういう場面では、特定の音楽のジャンルから独立な記録法で音楽を記録することが有効なのだろうと思うのだが、兼常清佐が言う「音声波形による音楽の記述」は、情報技術と組み合わせることで、有効な手段となるのではないか。

 

問題は、この音楽の記録法を使う人は誰でも、計算機のプログラミングができなければならない、ということだろう。その際、人文系の諸分野は、演繹より帰納が重要という特質が躓きのもとになるのではないか。

 

*1:文化的事象は多かれ少なかれ、地域と時代とが異なる環境で発展すれば独自性が育つはずであり、同じ法則に従うことはないのではないか。

*2:成立しているつもりで互いに勝手な解釈をしているだけ、ということになる。