狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

情報民族音楽学序文 音楽の科学的モデリング

「音楽に国境なし」と言われているが、音楽について語り合うためには話題に選んだ音楽について共通な理解をもつことが必要になる[日本音楽との出会い]。

音楽はそれぞれの歴史的展開に則って、表現上の約束事が多様化している。そのため、この約束事を各参加者がどのように捉えているか明確にすることなしに話を始めれば、約束事の食い違いから起こるかみ合わない議論が延々と続く事になる。実際、日本音楽では音楽は演者(継承する流派)が演じる芸能であり、西洋音楽では音楽は作曲家の創作物と見なされる。そこで、特に断りなく音楽について語り始めると、日本音楽では音でなく演者について語り、西洋音楽については演者でなく音(メロディ、音の表情など)について語ることになる。ここで西洋音楽の発想で日本音楽の演者の歌い回しに注文を付ける発言があると、この発言は日本音楽の発想では(その曲の唯一の演奏者である)演者を否定する発言として受け止められる。逆に、日本音楽の発想で西洋音楽の特定の曲の特定の団体による営業成績に関する発言(媒体の売り上げ、決定版CDなど)は、西洋音楽の発想ではきわめて制限された視点に基づく発言として受け止められることになる。

音楽が地域の歴史を反映しつつ成長してきたことを考えると、語り合ってある結論に辿りつくには、語り合う焦点を明確化することが是非とも必要になる。そのためにはそれぞれの音楽を明確に書きしるすことが必要であろう。その一つの方法は、それぞれの音楽について、音楽を忠実に模擬する模型を作製することである。

 

現象を忠実に模写する模型を作って現実の現象を議論する方法は、自然科学の分野で古くから行われてきた。実際、例えばNewton力学で衛星の軌道を予測するときには、惑星と衛星の運動に関する数学模型(運動方程式)を作り、数学模型の挙動を解析し、その結果から衛星の軌道を予測する。自然科学の分野で使われる模型を科学的モデルと呼び、科学的モデルを作る活動を科学的モデリングと呼ぶ事がある。

自然科学の模型は観察の対象となる実体の属性と、複数の属性間の関係として捉えられる。そこで、自然科学の模型は観測データ(数値データ)から組み立てられていると考える事ができる。これに対して人文・社会科学分野に現れる対象には、音楽のようにそれ自身には形がなく、継承する人によって維持されるある基準にもとづく再現行為によって具体化されるものがある。この観察に従うなら、音楽を知るための模型は継承者が維持する基準を示すものとなり、模型を構成するデータは数値のみとは限らない。

例えば西洋音楽に倣って音楽を継承する人の役割を作曲家、演奏家、演出家(演奏会場の設営など)を区別すると、作曲家の創作物を書きとめる楽譜が重要なデータとなる。楽譜に書かれた内容を知るための模型を電子楽譜と考えると、電子楽譜の構造は電子文書記述言語(例えば[MusicXML])に類似した(五線譜については楽譜記述言語が作られているが、民族音楽の分野に現れる楽譜には楽譜記述言語が作られていないものもある。)構造を取るはずである。

人文・社会科学の分野でも科学的モデリングが試みられているが、仮想的なジオラマ[**京都**]、伝統邦楽の再現[**阪大**]など、個別な事物の仮想的な再現が主となり、自然科学における科学的モデルのように研究の基礎的位置を得るまでには定着していないものと思われる。その中では、TEI(Text Encoding Initiative)、e-Buddhismなどテキストデータベース制作活動に関連して、文献資料の電子化活動には興味がもたれる。本研究の一つの目標は、自然科学におけると同様な、基礎的な位置を占める事が出来る科学的モデルを確立し、情報科学の新しい適用分野を明らかにすることにある。適用の対象としては、テキストデータ、音響データなど、多様なデータが現れる音楽史学・民族音楽学[Prentice-Hall]の分野を選んだ。この目標を探索する過程で、次の三つの中間的な形態を検討した。

第一形態:混沌状態 (AD HOC status)

兼常清佐日本民謡研究」という報告書があって、研究活動は昭和26年に終わっているのだが、声の波形データから数値計算で高さを導く方法に則って一貫してデータが作られている点が非常に興味深い。譬えて言えばデジタル信号処理に基づく民謡研究が有効であることを、電子計算機が現れる以前に、実証したものと言える。

情報科学の知見を音楽学に適用する方法論の最初の案は、必要性が認められた機能を手当たり次第にソフトウェア化するというものだった。機能としては例えば、声のパラメータ表現の推定から始めて、声のパラメータ値を解析して音楽音声としての特性を推定し、音楽の特性に適合する記譜法を創作し、楽譜を編集・印刷し、楽譜を仮想的に演奏して音を再現する、などが想定できる。

これによって兼常清佐遺作集に報告された資料を電子的に再構成し、決して完成されたとは言えない兼常の研究を再起動するきっかけとする。

次に示すように、この方法論は研究計画という意味では甚だ計画性がなく、長期にわたる研究遂行には次の問題を起こす。

第二形態:情報民族音楽学

無計画にソフトウェアを作成し続けると、一つのソフトウェアを長期間維持するためには作成したソフトウェアの運用に係わる次の作業が派生する。

1) 使っている計算機システムの変更に伴う問題点の解決:次の変更が起こり得る。

  1. ハードウェアの変更
  2. ハードウェアシステムで稼働している基本ソフトウェア(OS)の変更
  3. ソフトウェアが引用しているアプリケ-ション(データベースシステム)の変更
  4. など

2) 複数の異なるソフトウェアを相互接続して協調させる

3) 作成したソフトウェア、データを共通のツールとして利用するために流通させる

結果的には研究作業しているのか、ソフトウェアの運用のための維持作業をしているのか、判らない事にもなりえる。

そこで、ある研究分野の全体像を見て、現れるソフトウェア・データを予め列挙しておこうか、ということを検討した。ソフトウェア・データの構造の骨格(要求仕様)を予め固定しておけば、同じカテゴリのソフトウェア・データが極端に違う構造を取る危険をある程度は回避できるのではないか。これはある意味で、情報技術の標準化と言える。但しここで言う標準化は、情報技術製品の標準化でなく、設計の標準化となる。

この定式化には、情報技術側で想定する標準化を誰が実行できるかという問題が起こる。

第三形態:Algorithmic modeling

複合的な研究課題を遂行する上では、方法論の選択が課題となる。情報民族音楽学は、情報科学民族音楽学という二つの研究領域に跨って導入される。方法論は、新規に考案するか、関連する研究分野のそれに順子するか、という選択肢がある。関連する研究分野は、情報科学民族音楽学とがある。民族音楽学は、C. Seegerによれば、音楽学言語学民族学の三つの研究領域が交差する領域にある。さらに音楽学について、西欧様式以外の様式の音楽を想定するならそれを継承する活動に注目することになる。伝統邦楽の場合、雅楽、声明、琵琶楽、能楽、三味線音楽、歌舞伎などのジャンルがあり、ジャンル毎に継承者が決まっていて、音楽の理論も継承者毎に決まっている。結果として伝統邦楽には、音楽の継承者を横断的に見た「日本音楽」という概念は形成されていない[日本音楽との出合い]。

以上の考察から、情報民族音楽学の方法論は情報科学の領域で確立することとした。情報科学の一つの特徴は実世界の事物を模擬することにある。アルゴリズム(algorithm)は本来人間の計算能力を模擬する数学的模型であり、アプリケーションソフトウェアは実世界の業務を模擬する能力をもつアルゴリズム(ソフトウェア製品として流通する)を言う。そこで、対象とする音楽の、考察対象とする性質を忠実に模擬するソフトウェアを音楽の模型と呼び、物理学(一般に自然科学)で物理模型(一般には科学的模型)をとおして自然を理解するように、情報民族音楽学の活動を、音楽の模型をとおして音楽の理解を進める活動として定義することとした。この定義によれば、情報民族音楽学の方法論は科学的モデリングであるが、音楽という対象は物理的な実在というよりはそれを継承する人が継承に際して維持している基準(この基準という言葉は、品質の良い製品を製造するために作業者が維持している基準に近い意味があり、具体的な現れとしては工業標準を構成する規定が参考になると考えられる。)に近いものがある。

ここでいう基準を理解するための模型は、物理学における物理模型と数式モデルのように均質な構成法をとるものよりは、音楽の継承者の活動に関する模型、音楽に関する模型と音楽の継承者の活動に音楽がどのように対応するかを示す文書を組み合わせたものになると予想される。例えば西欧様式の音楽では、音楽の継承者として作曲家と演奏家があり、作曲家と演奏家との係わりを示す文書として作品の構成を示す楽譜が存在する。楽譜の模型には、印刷面のレイアウトを示す模型、作曲家が曲を規定するために指定した音の基準を示す模型、演奏家が演奏の計画を策定するために指定した音の基準を示す模型(演奏家の解釈を示す模型)がある。楽譜の模型は一意なものとはならず、目的に応じて最適なものを作成することになる。情報技術的には、数式モデルの範囲を越えて複合文書の構成技術に近いものが必要となることが予想される。

 

 

民族音楽学における科学的モデリング(Algorithmic modeling)は成立すれば、人文・社会科学における科学的モデリングの一例を与える。ソフトウェアが現実世界の事物の模型を与える事を論拠にしている関係から、ここで言うアルゴリズミック・モデリングはソフトウェア制作のためのモデリング技法(ソフトウェアモデリング[小林・木村])に近いものになるが、次の違いがある。第一に、ソフトウェアは時々刻々実世界の事物を模擬することから、ソフトウェアモデリングでは結果の振る舞いだけが問題になり、実世界の何を模擬するかを明記する必要はない。第二に、ソフトウェアは製品であり、製造コストの軽減が主要な課題となる。他方アルゴリズミック・モデリングでは、実世界の事物の記録を残すことが目的となる。このことから、忠実な模擬である事を示す文書とアルゴリズムを記述する文書とを必ず対で残すことが必要になり、確立した記録は不要として破棄されるまでの期間(それが数世紀に渡るものであっても)維持される必要がある。

 

このようなモデルの概念を導入し、運用することは、情報科学の分野においても、新しい研究課題を定義することになる。