狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

異文化交流の難しさ

信楽さんは昔、情報系の用語を取り扱う仕事をしていた。ある日電話で、「木構造が分岐構造を意味するのは何故か」といった内容の質問があり、咄嗟には質問の意味がつかめなかった。

 

質問してきた人に詳しく聞いて、質問してきた人の領域では「木構造」という言葉の意味が情報系とはえらく違っていることが分かった。質問してきた人の領域で「木」という言葉は製材された「木材」を言い、「木構造」という言葉は「木材で作った構造物」を意味する。ということなら、分岐構造にはならないだろう。

 

ここで問題は、同じ「木構造」という文字が、質問してきた人にとっては、「分岐構造」と「木材で作った構造物」という、似ても似つかぬ対象物を指し、しかも「木構造」という字が現れた時にデフォルトではその文字が指す意味についての注釈がついていない、という事なのだろう。予め意味がぶつかることが、判っていれば文字を変えて対応がつくのだが、あとから現れた文字と先住者である文字とがぶつかるのは困る。加えて、あとから現れた情報系の文字「木構造」も、情報系では既に存在を確立しているから、意味がぶつかるから文字を変えてくれと言われても変えようがない。

 

似た話は、異なる文化圏が重なる所でいくらでも拾う事が出来る。例えば「音楽」という言葉の指す内容は、伝統邦楽及び日本の音楽のように「上演されたもの」と考えるか、西洋音楽のように「作曲家の創作物」と考えるか、少なくとも二つの意味がある。この意味の違いは、音楽の呼び方に素直に反映してくる。前者の場合、音楽は「演者の曲」のように呼び、後者の場合なら「作曲家の曲」のように呼ぶ。

 

日本では西洋の音楽でも無理やり「上演されたもの」という枠組みで扱おうとするから、「名演」が表に出てくる*1西洋音楽の基準に忠実に従うなら「名演」というのは無理な扱いであり、一枚の名演に満足する位なら、様々な表現を聞き比べる方を選ぶ。ヴァルヒャが演奏したバッハの作品とグールドが演奏したバッハの作品は表情が全く違うと言われているが、どちらの演奏が正しいというものではなく、一つの曲から様々な演奏家が多様な表情を導いている点が面白い。

音楽に国境なしという標語は一見尤もらしくもあるけれど、お互いに変えようもなく完成されている音楽を無理なく扱うのは想像以上に難しい。問題は常識に係わる部分が実はその領域に固有だった場合で、こういう部分は常識として定着し、かつそれを表す言葉は別に「専門用語」という注釈がついている訳ではない。

 

異文化交流を本格的に検討するなら、こういう「常識」に係わる部分をもれなく取り出して、その意味する所をその領域の外から見ても判るように説明しきらなければならない。ある文化の習得には一生かかることを思えば、常識を完全に説明しきるのは無理としても、入口を開けて参道に入る位の所までは誰にも開かれた説明資料ができないものかと思う。

 

19世紀終盤から20世紀前半くらいまでの間「世界は唯一の理論に従って動く」という信念が一世を風靡した。この信念の震源地は自然科学と言われている。しかし、量子力学相対性理論とが現れて、対象のサイズによって従う法則が変わることが知られると、「唯一」の辺りが段々と曖昧になってきた。

もともと自然科学の法則は観測データから帰納的に導かれている分、観測データを一般化した所がある。一般化に無理があればある条件下で法則が壊れても何の不思議もないので、自然科学者は様々な設定化で法則が壊れない事を確認してきた。つまり自然科学の「唯一」という言葉は確認に拠って保証されるものであり、当初から保証されている訳ではない。音楽のように人が作ってきた文化ならばなおさら、ある法則が「唯一」だったら大発見、という世界だろう。

自然科学で帰納的に得た法則を保証する努力が積み重ねられたように、これからの異文化交流では、「唯一の」論を仮定するのではなく、互いの常識の内容について仮説を作り検証する、確認作業を積み重ねることが必要なのではないか。

 

異文化交流、言うは易く、行うは難し。

*1:名曲という場合、音楽を上演されたものと考えるなら誰でも知っている曲を指し、作曲家の創作物と考えるなら、音楽史に深い影響を与えた曲を指す。両者の基準には*若干の*ずれがある^^;。