狸系の里 シーズン2

はじめの一歩、二歩、散歩・・

スーちゃんの成長記

スーちゃんと言ってもキャンデーズ(ラン、スー、ミキ、古い・・?)ではなく、数学の話 β(^ ^;)。以下はこの位の軽いノリで書いているので、専門家の目から見るとヘンなこと書いているかもしれないのだが。

 

それはともかく・・

 

数学は公理系と証明図式とから出来上がったシステムであり、唯一無二、成長するとしたら証明済みの命題が増えるだけのように見える。だから数学が成長すると言ってもイメージがわきにくいように見える。しかし詳しく見てゆくと話はそれほど単純ではない。

 

その1.スーちゃんの精神的な成長

ある数学理論を展開している途中で証明できない命題に出くわすことがある。証明できないけど証明はしたい、そんな時にどうするかと言うと、公理系に仮説を追加して公理系を修正するA^ ^;)。

 

証明できない命題のイメージは次のようなものだろう。はじめに「数学は公理系と証明図式とから出来上がったシステム」と書いたけれど、ここには一つの落とし穴がある。この文章、次のように考えないだろうか?

「数学は有限個の記号を使って書かれた公理系と証明図式とから出来上がったシステムであり、証明はいつも有限のステップで完結する

頭の中の世界ではこうなると期待するのだが、実際に取りかかってみると無限個の記号や無限のステップが要ったりすることがある。

 

実数のような身近なものでも、数学はいつでも、存在することを保証するが具体的に掴めることまでは保証しない。存在は明らかなのだけれど、書ききるには無限個の記号が要るような対象もある。一つの例に超越数がある。

実数の中には、整数を係数にもつ代数方程式の根になることが決してない数というものがある*1。x*x=2かつx>0と書くと、この有限個の記号は√2の値を厳密に書いている。数πや数eは「整数を係数にもつ代数方程式の根になることが決してない数」であるので、方程式の根という書き方ができない。人が読むなら略記法を使って有限個の記号で書けるとしても、これらの数に関する性質を証明しようとする時には、有限個の記号で書ける数と同じ扱いになるとは限らない。

証明のステップを1,2,3,・・・のように書くと、有限個の範囲を超すステップというものがそもそも無いように見える。でも、そもそも実数という集合は整数だけを使っては対応させきれないほどの要素をもっているので、実数の一つ一つについて性質を証明していたら整数全体を使ってステップを数えても数え切れない。

ここで整数全体からなる集合をωのように書いて、これを0の代わりに使ってみる。ωの一つ後、その一つ後、その一つ後・・・のように要素を決めて集合を作ると、ステップを数える道具にはなるが、要素は有限個では収まらない。そこで、証明が終わった時のステップ番号をιとすると、これが整数の範囲に収まっているかと言うとその保証はない(超限帰納法を参照)。

 

有限な存在である人が無限個のステップを追う訳にもゆかず、ではどうするかというと、成り立ってほしい命題を仮説として導入する。この仮説が既存の公理と衝突して全体がクラッシュしたら元も子もないので、そんなことはないように充分検討するのはもちろんのことなのだが、ともかく、仮説の追加でもとの理論の公理系は変化したことになる。集合論連続体仮説はこの、追加された仮説の例になる。

 

ともかく、数学理論の名前は変わらずとも、公理系の全体は変化し、成長したことになる。

 

その2.スーちゃんの社会的成長

数学がいろいろな分野と交流をもつと、数学の言葉を使ってその分野で確立された概念の模型を作ることがある。このときに、数学としてはきわどい要請を受けることがあり、結果として数学自身が変わることがある。

 

Newton力学との交流の結果解析学が考案され、極限(無限大と無限小)の扱いという問題が出て来た。極限は始めて微積分を習う時に面食らう。lim a→0とlim b→∞とがある時にlim abがどうなるかと言うと、lim a→0だからと言ってlim ab→0とは限らない。例えばa(n)=1/nでb(n)=nならa(n)b(n)=1だから、lim ab→1になる。どうしてこういうことが起こるかと言うと、極限は、これが出てくる前の実数の境界線を踏み出しそうなところにいるから、ということなのだが。

 

実数の世界にはアルキメデス性という性質があって、勝手に選んだ正の実数α、βにはいつでも自然数Nが取れてNα>βとできることになっている。だから∞という実数があってこれをβとすると、どんなα>0にもあるNがあってNα>∞とできることになる。これでは何が∞なのか、ということになる。こういう場面に直面したときに二つの対応が考えられる。

  1. 一つはこれまでの実数を実数と認定して、極限値を扱うための回避策を作る。
  2. 一つは極限値を数と認定できる新しい実数を創作する。

この二つの対応は実際に行われている。つまり数学の世界には、厳密に言えば性質が違う、二つの実数があることになる。このうちAが、微積分学でとられている対応策で、極限値を扱う回避策としてεδ論法を使う。Bの代表的なものにはロビンソンの超準解析に使われている超準実数がある。非常に大まかに言うと、超準実数は部分集合としてこれまでに意味での実数をすべて含み、さらにこれまでの意味でのどんな実数βをとっても*α>β>0となるような*αを含む。注意点として、1/*αはこれまでの意味でのどんな実数βをとっても、0<1/*α<βとなる。

Newton力学が立ちあがったころには無限大・無限小についての把握がまだ曖昧で、数のように考えられていた時期があったらしい。εδ論法という回避策が出来るまでには議論の蓄積があり、解析学という数学の形にまとめられた結果として、実数論が成長したと言える結果が得られている。

 

数学を唯一無二の存在と思う時に、もし、数学理論と実社会との交流が無視されているとしたら、数学にとってもあまりよい結果にはならないのではないか。以上、雑談終わり A^^;)

*1:超越数、例には円周率πや自然対数の底eがある。